う。戦争前の、そろそろ町に物資不足を訴へた時分にも、デパートといふデパート、その他、浅草、銀座、人形町……あたりの衣類店が、一斉にベニ赤ッぽいべらべらした染地の着尺ものを店頭に飾つたことがあつて、ぼくは町の「風紀衛生」の上に、この安染料ものは感服しないと思つたことがあつた。
ある日、中野の市場で、そこに駆け込んで来た彼女達の一人を見たことがあつたが、クチビルと手のユビ先をひどく真赤にして「あの、ナイロンの一番長いクツ下あります? 値段はいくらでもいゝの……」と高飛車にいひ込んで来た。
思ふに「ヤミの女」の風俗なり生活ぶりは、一般の娘達の趣味嗜好に影響せずにはおかないだらう。
電車のどうやら空いた箱へ乗り込むと、極めて電燈のうす暗いその一ぐうにポマード・ボーイズが一団を成してゐて、その一人が腋でズーズーいふハーモニカを吹いてゐたが、曲は……「おこるのは、あつたりまへでせう」といふあの歌だつた。これを繰り返して何度も吹き鳴らし、東京駅を出て、お茶の水へ来るまでつゞいた。前ならばやがて検査といふ年ごろの者たちだらう。
その時、吊革の、ぼくの伸ばした右手の片わきに、二人、若い娘さんがゐて、ちらッと聞えたその会話の一節が……「悲観するのおよしなさいね。自殺なんてダメよ」とは、果してどの程度の言葉の意味で、何の話をしてゐたものだらうか。
ぼくは中野で降りて、暗い町を早足に歩いて帰つたが、その途中ですれちがつた男達が……「美の表現は、きみ」と大声に話して歩いてゐたのは、これにもまた妙にオドロいた。
十二、綜合展覧会
この春の上野は引続いて各展覧会の盛況を極めたことだつたが、かゝりもかゝるが、入りも相当にあるのは、「文化国家」とうたはれる声々の響きもあらうし、正直のところ、見るものゝ少ないせゐがあるだらう。実は見る楽しみは劇といひ映画といひ沢山にあつても、「少ない」といふのは、実のあるものが少ない。明治のある時期には絵画展覧会は、極く規模が小さく、これに反して、団・菊・左等の劇壇は比較にならず大きかつた場合があつた。――それから見れば、今絵画展覧会のスケールが大きくなつたことは取り敢えず、文化国家の名にふさはしいものと見て良いやうである。この春のある新聞社が主催した、名画展(フランス絵画展)の如き、上野にあれだけの人垣を築いたことは、絶後ではないかも知れないが、空前であつたことは確である。
今年は殊に新聞社の催しものが多く、規模も大がかりで、朝日の綜合展に次ぐ、今は毎日の美術団体連合展が開かれてゐる。
新聞の催しは、各社共これに乗りかゝつた以上、片々たるものでないし、宣伝も届くから、広く人を招く「展覧会」としてふさはしい行事ではあつても、やゝもすると「新聞社」は「敵本主義」の、アレがやるからオレもやるといふところがあつたり、殊にをかしい傾向とも欠点とも見えることは、A社が主催すれば、その展覧会が如何にすぐれたもの=報道価値充分のもの=であつても、他のB社、C社は紙上にその報道を一行も書かないといふかたぎが目に余ることである。これは面白いと思へない。
それと、新聞社の催しともなれば、強引にも行くから、機の熟すると否を問はず、やり出したらとも角そのやることをやつつける[#「やつつける」に傍点]傾き無しとしない。例へば果して今美術界の綜合展は、綜合されれば会に依つては同じシーズンに二回展覧会を繰り返すことになるがその必要があるだらうか、秋の官展に対する――官展は所詮アカデミズムまたはトリビアリズム一方のところであつていゝ、――春の綜合展は、名実共「綜合」といふたてまへで、大新聞社が若し共同主催でこれに当るといふやうなことになれば、それこそ文化国家の正しい名において、如何にふさはしからうかと、空想をする。
十三、森川町
「本郷区」を改正して「文京区」としたのは、大森・蒲田を合せて「大田区」とやつた愚案に比べれば、良い方だつたが、ぼくは、相当久しくそこの「森川町」に住んでゐた。東大の正門前を左へはいつたところだ。――この文京区の一角は、こんどの戦災に焼け残つた。
早くも四半世紀前とはなつたが大正震災のころ、ぼくが森川町にゐたのはその時分で、地震の時は丸二日間といふもの、近くにあとからあとからと揚がる火の手を見い見い、いざとなれば立退く身支度をして、森川町寸角の中にこもつてゐた。結局この時も、随分近くまで焼き払はれたに拘らず、あの一角は焼けなかつた――いはゞ浅草の観音様よりも、火事運の良かつた土地柄といはなければならない。火事運が良かつたばかりでなく、さてさうして、近年二度の大災を免れて見れば、その残つた姿は町そのものといひ、家々といひ、その各戸のなかの造作、畳建具に至るまで、広く「東京」といふ観点から
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