りへ大曲りに曲る角のところ――従つてそこは馬車が時間をとるから、長く視線のとゞまる一角――に、土蔵があつて、そこの白壁へもつて来て、麻かみしもの老人が、両手にビンをつかんで笑ひ顔をしてゐる、大きな絵が描いてあつた。今でもこの銘酒「雪月花」の老人の、八方にらみの眼は、忘れることが出来ない。
[#銘酒「雪月花」広告の図(fig47728_03.png)入る]


     十、ネオンサイン

 新聞の広告欄に「ネオンサイン外務社員」若干名募集と見かけるやうになつた。ネオン・サインは都市の生活に必須急用のものではないが、明らかに不急なだけに、却つて、復興生活には必要だといふ逆説も成立つのだらう。大正年度以来ネオンの無い夜の都会は、生活の休業か、「非常時」かを意味することになつた。文字通り「非常時」を迎へたゝめに、この四、五年のところ、ネオンは消えたのであつた。そして危く消えッぱなしになりかねなかつたとたれにいへよう。
 今朝、何気なく窓から外を見てゐると、昔ながらの節の付いた呼び声で、コーモリや、コーモリ直し、と、町を呼んで歩く「売り声」を聞いて、何かしらんホツとしたやうな心持がした。昔の東京の朝は、五月のさはやかな風の中を、金魚屋であるとか、苗売りなどの呼声が、季節の訪れに通つたものだつた。苗売りの美声はその後まだ聞かない。……
 ネオン・サインの始めは静止的で却つて人目を引いた。やがて銀座に引続いて大規模のカフェーが出来るやうになると、これは何れも派手なネオン装飾で歩道をも昼のやうに明るくし、概してその色は、原始的な赤と青で、大阪資本を思はせ、カフェーが一軒づつ増えるたびに、東京は関西方の東漸勢力に押される気色を見せたものである。
 丁度そのころ、京橋の角に点ぜられたゼネラル・モーターズの大広告燈は、文字と絵が光のうづのやうに夜空を駈け廻る、大がかりのネオン装置で、その色燈がまた「関西色」とは違つた、程よく間色を交へたもので、見る眼に涼しく、ネオンの一新機を劃したものだつた。そしてこれがぱつたり消えた時に、日本は真黒な戦雲に閉ざされたのであつた。
 ぼくの知つた燈火広告の最も古いものは、明治卅年見当に、横山町の商家筋で、町のもの日に限つて点ぜられた、葉茶屋の店頭広告であるが、それは大きく「茶」の字をヒサシ屋根の上に、光で現はしたもので、「光」といふのは、火ぐちから一つづつボーボー吹き出すガスであつた。それを文字形に連結した細工である。とんと今でいへばガスコンロの火を遠目に見たやうな形の、そばへ行くと、ゴーゴーものすごい音がして、風の少し強い晩は、字形は半分以上吹き飛ばされて読めなくなる……原始的なものだつた。しかし心うれしく見たものであつた。
 まへに述べた、雪月花の広告壁画の目立つた石町の曲り角には、やがて時代が変ると、こんどは屋根のうへの大招牌に、ペンキ絵の、これも大きな人物画が、宗匠帽子の柔和な老人となつて現はれ、そのわきに句が入れてあつた。「江戸の気に今日はなりけりのりの味」と。のりやの広告ででもあつたものか。
 この絵は、現存六十翁の斯界の先達が、壮年のころに執筆した大作だつたといふことである。その人の名を長谷川カズヲといふ由。
[#燈火広告の図(fig47728_04.png)入る]


     十一、生活の色

 世の中の一変した有様は終戦後三年にして、省線電車の環状線を一周りして「車内の生活」を見ただけでも、明らかとなり、旧時代の色は一と先づかき消されて、新しい「色」がそこに塗られたやうである。恐らくこの「色」は、塗られたにしても、一時の扮色であつて、やがて又変るであらう。変らなければならないとも思ひ、これが地色であつては、「時代」も「国」もたまらないと思ふものゝ、仮りに名づけて「敗戦色」とそれを呼ぶ外にはないものだらう。
 人々の服装の国防色ひと色はひとまづ見られなくなつた。十分の質の服装ではないにしても、適度の身だしなみは整つて来たこの節の傾向は、「敗戦色」の中ではいゝ色の分子である。中に若い男や女が飛び離れてよい――といふよりは派手な、きらびやかな服装をしてゐるものがある。思ひ起すのは、大正のころに、いはゆるモガの、断髪が流行し始めたころ、大胆かもしれないが蕪雑さは目をおほはしめた、ヴァルガーな風俗が世代の色だつたことである。それが昭和の絵羽模様に金糸銀糸まで行つて、「敗戦前奏曲」を奏でたのであつた。
 近ごろ、はなはだしく若い娘姿に和服の「紅」系統の色目が目立つし、若い男に、ポマードでてかてか固めた頭髪が増えて来た。電車強盗の青年も何れもこのポマードで固めた頭だつたといふ。娘衣裳の「紅」、一体あの染料は、一番安直に簡単に染附く、つまり「染粉」であるから、今のやうな時代には、一時必ずこれが氾濫するのであら
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