を払ふ良材であるといふので、城の鬼門に当る本郷台に御弓組の与力同心を住まはせて弓町が出来る……
一方、家康と一緒にこの土地へ「進駐」して来た町人達は、それぞれ屋号のれん[#「のれん」に傍点]を掲げて、相模屋、伊勢屋等々を号し、後々までも、江戸市中の名物は、軽口に「伊勢屋、いなりに、いんのくそ」といはれた。
秀吉の大業が成就を見た頃ほひ、家康の国代へ――栄転――は何れにせよ必至と見て、旗本の連中は、居城は多分小田原だらうと取沙汰するものが多かつた。中には、鎌倉だらうと推するものもあつた、けれども、一人として「江戸」とは考へるものがなかつたのに、俗史のいふ、秀吉と家康とがいはゆる関東の連れ小便をしながら、小田原城を見下ろす山の上の談笑で、江戸移駐を秀吉がすゝめ、家康が受けたといふ。とに角この「移駐」のことが電撃的決定を見るといふと、家康は又非常に敏速に引移りを断行して、秀吉を驚かせたといふことである。
歴史にはこれについての見方がいろいろあるやうであるが、家康を東へ封じたのは、秀吉の彼に対する敬遠策であるともいひ、その反対に、疎隔敬遠と見えて、その実は、古豪北条氏の旧土を占めることこそ、家康にとつては、最も望むところであつたとする。されば下世話にいふ「御意の変らぬうち」にと、徳川氏の東移は疾風迅雷的にとり行はれたといふのである。
天正十八年(西暦一五九〇年)の七月六日に、小田原城攻略成り、その十三日に家康の関東移封が発表されて、その旗本家人の衆をも事の意外に驚かしめ、しかもそれから半月後の八月朔日、八朔には、家康は早くも新駐の土地に乗り入れた。
底本:「東京の風俗」冨山房百科文庫、冨山房
1978(昭和53)年3月29日第1刷発行
1989(平成元)年8月12日第2刷発行
底本の親本:「東京の風俗」毎日新聞社
1949(昭和24)年2月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※図版は、底本の親本からとりました。
入力:門田裕志
校正:伊藤時也
2008年12月11日作成
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