神、湯島天神、山王、烏森稲荷、築土八幡、角筈の社、五条天神……等があつたといふ。寺社のある[#「ある」に傍点]といふことは、それだけ人の栄えたことを意味するものである。
 源頼朝が鶴岡八幡の社殿を造営した時、これに堪ふる腕の工匠が鎌倉には見当らなかつたところから、特に宮大工を江戸の浅草から呼寄せて造営に当らせたといふ史実の残つてゐるのは、当時江戸に、然る可き「文化」の備はつた実証と見ることが出来る筈である。
 ――とはいへ、到底「繁華」といへるものではない。只この土地に住み付いた人文の歴史は浅からず近からざる、その意味で徒らに狐狸の住家ではなかつたといふわけの(家康入国の当時は、縦十二町、横三、四町の市街があつたといふ)、わびしいことは、わびしい土地柄だつた。水戸から江戸に移り住んだ先住の佐久良東雄がいつたといふ「身は都に住めども狐狸を友として荒野に坐するが如し」。所詮これは、当時の実感だつたらう。
 時は飛ぶが丸の内に草蓬々として「三菱ヶ原」のあつたのは、久しく明治の景物画だつたが、やがて大正年度にかけて、三菱ヶ原がすつかりコンクリートで埋まつた時に、――さしもの武蔵野も、その最後の一草まで、こゝで遂に新時代の姿に衣更へを完了したといふことが出来る。
 三菱ヶ原の大規模な「衣更へ」を赤煉瓦のコンドル博士が創つたことは、前にいつた通りである。
 そもそも筆者あたりの年のものが親しんだ、丸の内興隆史の第一ページは、宮城前の「草」だつたもので、この「草」を時の政府に用立金をして払下げを受けた岩崎弥太郎氏が、この「買物」について側近に放言したといふ、「なあに当分あのまゝにして、トラでも飼へばいゝさ……」の、その荒涼とした原ッパだつた。われわれ子供のころには、三菱ヶ原といへば、もちろん日が暮れてからは行けないところで、夏の日中などは、東京一の、虫のよく捕れるところだつた。
 家康は榊原康政を惣奉行として荒蕪の土地に大土木を構へることゝしたが、こゝで「江戸もの」からいへば、そのなじみの土地々々へ、徳川直参の人々の根を生やして、根を生やすや、またたちまちその土地の名も実も身につけてしまふ血液移動が行はれたことになり、榊原康政は池ノ端向ヶ丘に住み、井伊は和田倉門、酒井は大手土橋口、城内西北に内藤金右衛門、大野清兵衛など大番頭衆として、これが番町に住む。御鷹匠は隼町に住む。矢は悪魔
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