を回顧する時、どのツラ下げて、無い無いづくしをこぼしてゐられるだらうか。寧ろ「無い」ものは、画文に依らず、政治にも、商道にも、エスプリ(心)であつて、他のものは却つて皆「有る」のではないか、などと。
 明治初年、西洋画法を志した程のものは――これは、或る意味の国士であつたが――エスプリこそ有つたゞらう。他には文字通り何にも無い中で始めた。小林永濯は、南蛮渡りの銅版画を模写するのに、紙、無し。ペン、無し。インク、無し。それにも拘らず、大版の美濃紙を以つて、極細の真書きに墨汁を含ませ、その毛筋のやうな線を縦横に引いて「銅版画」を「毛筆画」に写してゐる。
 その遺品を、時々上野の博物館にかけ替へで出てゐるのを見る時、ぼくなんかは身につまされ、思はず陳列棚のガラスの前で、絵に向つて頭を下げずには通れない。
 当時の人は鉛筆を木筆と称してその一本をも貴重愛惜した。洋紙を獲ようがためには、横浜まで出かけて商館から、舶載して来たものゝ荷物の包み紙を乞ひ求めたといふのである。
 その折り目の無いところを、丹念に切り取つて寸角を獲る。これが世にたつたそれだけしか無い「用紙」だ。これに一筆三礼して絵画をモノした。
 われわれどうして「紙が無い」などといつてゐられるだらうか。
 洋画の学生は今でも初学に石膏像の素描をするけれども、これはフォンタネージ先生がイタリヤ・アカデミーの風を日本へ移入されたときから始つた定規の学習方法で、そのころはこの Plaster Cast を白人形といつた。油絵を描くには所詮外来の彩料に待つ他なかつたわけだが、これは貴重この上ないので、陶の土に荏油を交ぜて加工したものを白に使つたといふ。「白」には相違ないが、元々茶色がかつた上に、荏油といへば、わかり易くいへば提燈屋、傘屋の紙の上に塗る、あの油なのである。完全の色度を獲ることは出来ない。
 明治時代には総じて文化的優質の品物類は外来のもの、いはゆるハクライモノに限つて、内国製は出来なかつた。それが追々と「和製」でも出来るやうになり、従つて簡単に手に入るものとなつたが、品質はおちたのである。――その品質が漸く良くならうとするところへ、戦争に出あつて、機構の潰滅を見たのだつた。
 当分またわれわれはもう一度「舶来即、上等」のある期間を経験するのではないかと思ふ。


     二十一、唐草模様

 安政六年――西
前へ 次へ
全34ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング