があつた。しかるに何かのかどで、ワーグマンにクツで蹴られたとかのことがあつて以来、断然今後は油絵の筆を折る、と志を代へたのであつた。それで清親の東京風景版画が残つたといはゞいへ、またこの人にして、油絵をより一層学んだならば、別に面白かつたところもあるだらうなどとも考へられる。
ワーグマンは英国の軍籍にあるもの(陸軍大尉)だつたが、スパイに非ざるやの疑ひで、有島さん(生馬氏)の父上あたりは――横浜の税関長を奉職された――その行動を監視するためにワーグマンの足跡を追つたといふやうな話も伝はつてゐる。少くとも絵は素人と雖も大家以上だつたらう。よくいふかうもり以外よく飛ぶものゝ無い(洋画法にかけては)その時代の日本にとつては。――後に至つてその「素人」のワーグマンがかたことで教へた西洋画術は、イタリヤ人フォンタネージの工部大学で教へた正規の画学に依つて、理論的な筋道へと置き代へられ、ワーグマンの門からは五姓田芳柳、高橋由一等が現はれ、フォンタネージの門からは小山正太郎、浅井忠、松岡寿、山本芳翠、五姓田義松等々逸才が出て、この辺に、日本洋画の道は、開眼を見たのである。
ジョルジュ・ビゴーといふ人がゐる。ところがビゴーはどうかすると片々たる漫画画工として看過され易いに反して、その履歴はといふと、却つてワーグマンよりも筋の正しい本格の仏国のアカデミー出身の人で、明治十六年に来朝してから、先づ改進新聞に招かれて人事風物のスケッチを試みるかたはら、その鋭い、感覚の優れた「眼」に依つて、沢山の明治日本の生き生きとした素描を描き残してゐる。
レガメーといふ人があつた。この人は前後二度来朝したらしいが、却つて日本には全然といつてよい程記憶されない画家でゐて、初めて日本人に本格的なフランス印象派の講演をした(明治三十二年のこと)のがこの人で、多少ネコに小判式の、未開地に過ぎものゝ「先生」だつたかもしれない。日本紀行の本を絵入りで著はしてゐるが、その中のこん棒片手の巡査の像や、江の島の茶店の女中の面影などは、浅井先生を更に縦に掘り下げたやうな、本格水彩で、稀品とするに足る。
十九、広瀬中佐
所詮「開化」の行跡は外来に学んだものゝ、日本には建築の面白いものはその意味で多少見られたが、記念像(銅像)の佳品は少なかつた。銅像といへば大将でなければ、キフキンを集めて会社の社長の
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