つとなつてゐる。
 一ころ寄席の芸で、はなしかの雷門助六が立つて踊る高座のお江戸日本橋は、「桑名の殿様」と共に、一芸のものだつた。派手な円遊の「綱は上意」や、飄逸喜ぶべき三好の「柳」とは違つて、妙な言葉ながら「本格的」ともいふべき、そのくせ動きをほとんど座布団のたけ幅一尺外へは出さない、内バ[#「内バ」に傍点]の足どりで、槍をふるつて見せる、と、大道狭しと行く大名行列もそこにはうふつとするのである。――つまりほう間[#「ほう間」に傍点]の座敷芸に演じたところを、高座に移した姿であつた。
 いはゞ踊りを盆栽に仕生けたものともいへるだらう。――今日ではほとんど見られない。
 序でだから書くけれども、近年「小うた」といはれるものに必ず振りがついて、特に小うた振りと称する小舞が行はれるが、小座敷あるひは小舞台の芸なるに拘らず、例へばその「こよひは雨」「心でとめて」など、新ものゝ「小猿七之助」等申すにおよばず、何れも動きをかへつて派手に大きくとるのは、大きくなければ絵でないと思つてゐる文展の出品画のやうにをかしなことであつた。かつぽれの梅坊主なども、戸外では立てものゝ相当大きなやあとこせ[#「やあとこせ」に傍点]を旗印しにはでに演つたものが、座敷芸の場合には、「深川」「坊さま二人で」の件りなどさへ、たゝみ一畳と動かずにさし[#「さし」に傍点]で二人十分に踊り切つたものだ。客席で立つほう間の踊りは、その辺に料理皿小ばちもある関係の畳半畳とは動かずに済む身ぶり足どりでなければならなかつたと、桜川長寿が話してゐた。
 小うた振りも「初出」などは足もとさへたてまへのはり[#「はり」に傍点]木の上を踏む心で行けば、三尺四方以内で――たてに深く――踊り切れるものと聞いた。これはやまと屋のいつたことである。
 諸芸の風も求心的な深みや味を主意としたもの(江戸ぶり)は衰滅して、遠心的に大きく動かうとする風(西洋風)が専ら行はれるものであらう。それが良く大きく行く場合はいゝが、やゝもすると内容はバサけ勝ちになり、味の浅さに対して、概して近年人が一般に鈍感になつたことは、否めないやうである。


     三、道中「上り」「下り」の唄

 お江戸日本橋の道中うたは、本文通り日本橋を朝明けの七ツ(四時)に立つて、高輪へ来てちやうちん[#「ちやうちん」に傍点]の火を消す。それから段々と西へ「京」へ着
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