大きく、円く、場末々々に見つもれば、良いわけでせうな、といはれた。
「呉竹の根岸の里、なんてところは当然、一里半の寸法から見て、隠居所のわけでせう。木村さんの今のおすまひは」とぼくに向つて「銀座まで出るのに何分かゝります?」
「さうですね、電車だと、まごまごすると『場末』になつちまふくらゐかゝります。バスや円タクでうまく行けば、その半分ですむし、ハイヤーで飛ばせば、十分。――」
するとその座にゐた小杉さん(放庵子)がいきなり佐藤さんに向つて手を振り「乗りものを何か一つにきめて返答させなければいけない。電車がいゝ。電車、電車。」
さういひながら、ずらりとわれわれ一座の中川一政、石井鶴三、ぼく、などの顔に一べつをくれて「さうしないと、このテアヒは、なるべく自分のすみかはバスヱにならない工夫をしていけない。」
そんな話をし合つて、夜おそくまで興じたことがあつたが、今同じぼくの家から、中野、鍋屋横町の近く銀座へでようとするには、どうもがいても「足」を、一時間半と、見なければならない。――さぞや佐藤先生はアノヨで、僕のバスヱ転落を手をたゝいて笑つてをられることだらう。
「かねやす」といつたのは、くどくなぞるまでもないが、戦災前までながく本郷三丁目の、西角にあつた名代の化粧品店で、兼康と書き、享保年代からの老舗で、元は町の反対側の角にあつたといふ。
丸の内から見てそこまでが「江戸の内」といふ川柳子のうがちは、故主兼康友悦の、場末に稀な花やいだ商法ぶりを、詠んだものだらう。
昔は三丁目から切通坂へと通る細道を、特に兼康横町とも呼び「乱香散と申歯磨売初罷在」などとも古い文献にのこる。小態《コテイ》ながらも、江戸名家の一つであつた。堀部安兵衛が、この家のかんばんを達筆に書き下ろしたものが、また名うてゞある。
今試みに縮尺四万分ノ一の大東京地図の上で、宮城を中心に本郷三丁目までの直線を計つて見ると、これが曲二寸一分になる。この二寸一分を半径にしてぐるりと円を描くと、この円の中が「江戸の内」といふわけではないが、本郷三丁目より地図の上で右回りに東へと湯島新花町、秋葉の原、こゝで神田川を越えて、岩本町、大伝馬町、人形町、茅場町、八丁堀、新富町、築地、汐留と、「下町」を半周して、段々「山の手」へ、御成門、神谷町、箪笥町、氷川町、新坂町、青山御所、片町、市ヶ谷本村町、加賀町、牛込北
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