見ての文献ものとなる。立つたまゝで骨董価値の出来た家々といふべきである。
 すでにぼくが大正震災のころにその土地で住んだ家が、二階建ての借家の、実はそれが好みでその家に転宅した、見るからに「明治」出来の古い建物だつた。その「明治」も、中期以後へは下らない、万端の木組に出来てゐて、家中に「なげし」といふものが回つてゐず、戸障子の寸尺は普通よりつまつてゐて、軽く、二階の床わきには、西へ、突き出しの窓がとつてあつて、この出窓の手狭な天井が、丹念に細かい目の網代編みにしてある。柱も、二階縁の手すりも、廊下も、なんとなく家全体の寸が狭い。
 そして室の中心の柱には、昔腕木にして取附けたガスの器具の跡があらうといふ……私がこの家へ越した時に、先づ遊びに来た友人の、田中咄哉州は、家の中を見ながら、笑つて、「古道具あさりがたうとう貸家の古道具にぶつかつたわけだね」といつた。
 記録に依ると、本郷のあの辺は明治廿年左右までは一帯に雑木山と竹ヤブが多かつた土地を、廿三年ごろから、ぼつぼつ切開いた。人家が出来始めると、さうして「開ける」あの辺の勢ひは又早かつたといふが、僕の借りた家などが、さしづめそんなあの辺りの「草分け」に出来た一軒だつたらう。


     十四、江戸のうち、そと

 森川町はもと森川宿といつたさうで、与力に関係が深く、与力にこの土地柄の親属関係から森川を名乗るものが多かつたので、その「宿」とした由来の、中仙道筋の、建場の一宿だつたといふ。――かう聞くと、帝大のまん前もすつかり田舎めくが、もともと森川町は「江戸の外」である。「本郷もかねやすまでは江戸の内」といふ寸尺から計れば、ゐなかだ。
 ――これについて、亡くなられた佐藤巧一博士に、面白い話を聞いたことがあつたが、昔の都会生活、「江戸」では、中心地から一里半のところを、東西南北共に、自ら「場末」としたものだといふ。それで「かねやすまでは江戸の内」の寸尺が出て来るのだが、「一里半」としたのは、当時これを徒士で行く条件からの見つもりだといふ。博士曰く「丸の内へ一里半離れたところでは、活発な都市生活を営まうとするに、その江戸人に、いはゆる、出端が適さない。」いざといつて間に合はないといふわけだらう。
 佐藤先生は笑ひながら、これを今でいへば、いろんな交通機関で銀座へ出るまでの時間、ざつと一時間――といふところを、ぐるりと
前へ 次へ
全34ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング