れば、それは明治二十年のことなので、私などの生活は、その勘定からゆけば(私、明治廿六年生)生れおちると「電燈の光」の中に包まれたやうだ。しかし実際上は、私の少年時代は、寝室など行燈だつたし、――大正の人ともなれば行燈生活は全然知らないであらう――家の照明はガスを主として、これを石油ランプで補つてゐた。
 ガスといつても、点火すると火口からパツと直かに三角形の火を吹き出す、原始的なもので、それでもぼくの家などは、夜の「明るさ」を要求した商売屋(牛肉店)だつたので、精々明るくしてあつたのだらう。補助ランプのために男が特に一人、これにかゝりきりでゐた。ぼくも普通より「明るさ」になれてゐたやうである。
 ――しかし、夜の光は、今から思へば乏しかつたものらしい。
 ぼくは昭和三年に「パンの会」の油絵を描いたが、パンの会は明治四十年代早々に催された文人画家交歓の会合で、木下杢太郎氏あたりが主唱となり、メムバーは相当広範囲に渉つて、谷崎さんも出席したし、永井荷風さんあたりも顔を見せたやうだ。ぼくは――ぼくの年齢として――身親しくはこの会合を知らない。ぼくとは四つ違ひの兄貴が当時文学青年としてこれに出席したところから、幾分空気を親しく見聞してゐた間接の関係である。
 萱野二十一(郡虎彦氏)あたりが、二十一の名の通り、出席の最年少級だつたらう。小網町の川岸の西洋料理店などを会場に選んで、長夜の会合を開いた。
 これにさきだち、ガスには(その歴史の示すやうに明治卅年から卅五年までのところで)例の青白いマントルが一般となつてゐたから――ぼくの家などもさうだつた――パンの会も、照明は会場に数個燈つてゐたといふガスマントルの光を主力として、これに装飾として、ほほづき提燈の綱を天井から下つたガスの管から管へと張り渡し、燈入りの提燈をいくつかぶら下げた。(杢太郎氏の話)
 まづこれで会場は相当明るかるべきはずである。ぼくはその見当で、その情景を想像しながら絵に描いたが――なんとこの時、この絵を描いた(昭和三年状態の)ぼくの仕事場の夜業の電気の燭光が、昼光燭といふ球の、三燈合はせて六百燭光だつた。画面の近くへ電球を近寄せて見れば、条件の悪い昼間よりモノ[#「モノ」に傍点]はよくわかる程である――それで出来上つた僕の画面の明るさ加減は、どうしても「まだいけない、本当は君の絵よりもずつと会場は暗かつた
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