なりしが之れを埋築し、明治二十年功成りて深川区に編入し、近隣に旧洲崎弁天の社あるを以て町名とし、同二十一年九月、一丁目二丁目に分ち、遊廓と為したり。」
[#「松喜楼」のキャプション付きの図(fig47709_03.png)入る]
 して見れば、一立斎広重が死の直前(安政自三辰至五午年)に作つた江戸百景にこれを「洲崎十万坪」として一望荒涼とした地域を空から大鷲の舞ひ下るすさまじい風景に表現したのも、肯かれる。井上安治の洲崎は――安田雷洲の洲崎なども同じやうな図柄の――前景に長い川添ひの堤防があつて、草地となり、これが埋立地とおぼしく、はるかに神社の屋根が兀然と高く見えるのは洲崎弁天に相違ないものである。
 恐らく安治の風景は、明治二十五年以前に写されたこの土地の点景だつたに違ひない。

 ぼくはその日(十一月三日夜)俄かに洲崎へ足を踏み入れたといつても、別段用事も目的もあるわけではないから、昭和十四年極く気散じに、足の向くまにまに廓内をぶらぶらして見た。主な大通りは非常に幅広いが、他の十字路は大抵六間幅だ。
 何しろこの遊廓の印象は何処も彼もヘンに森閑として薄暗く陰気でゐて、そのくせぬるい湯がわくやうに、町のシンは沸々と色めいてゐる。――ちよつと東京市内では他に似た感じの求めにくいものである。ぼくの乏しい連想でこれに似た感じのところは、京都の島原。それから強ひていへば、阿波の徳島の遊廓、三浦三崎の遊廓。さういふものに似てゐる。市街地からエロティシズムだけ隔離して場末の箱に入れた感じだ。色気が八方ふさがりの一劃に封じ込まれた為め、町が内訌してゐる塩梅だらう。
 昔の芝神明の境内の花街だとか池の端あたりは、矢張り暗いむすやうな中に極く色つぽいものだつたが、四通八達のなかに在るので、空気の通るものがあつた。濁つてゐず澄んでゐた。
 断つておくが、洲崎の印象はその時ぼくの受取つた極く素直な客観であつて、微塵も主観ではないといふことである。平たくいへば、ぼくは一向その時色気を兆してゐないのに、町全体、家々に、自づから色気があつて、それが感じられるといふ意味。――
 すると、飛躍して人が色つぽくならうが為めには、新宿や吉原等の職業地よりも、洲崎は当時絶好のコンディションに置かれてゐたものかもしれないと思ふ。――しかしさう思ふそばから直ぐとこれを否定にかゝる客観にいつはれないものゝ
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