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後に小杉さんは院展の大正四年春期展に――この絵は特にこれをこゝに引用する意味ではなく、偶々手許に図柄のよくわかる複製があるので、いふことが書き良いから、そして結局書くことは他の小杉さんの代表作についていふところも同じになるから、便宜上、これについて述べる――「鵜飼」といふ絵を出してゐるけれども、この仕事は「構図」とその装飾意義に画因なり仕事の趣意の大半のあるもので、これを構成するメチエはまた「線」に大半を負ふものであるが、評家のさきにいつたといふ「シャヴァンヌの画趣」は脱したもので、日本的となり同時に小杉的となつたものである。そしてそこに功罪倶にあるものと思ふ。「功」は作者が洋学をこなしてこの新地開拓に至つた点にあること、申すまでもなく、また「罪」は、その洋学からの脱却し方にある。作者の個性、あるひは境地は逸早くこの脱却し方に依つて樹てたらうけれども、「絵画」の本質は、これによつて多く得たか或は損失したか、暫く疑問としなければならない。
次のぼくの耳食も亦聞き誤りなりとすれば改めるが、小杉さんは「油絵の写生といふ奴が苦手だつた」。これは、ダプレ・ナテュールのリアリズム或はナテュラリズムを意味したものであつた。
脇本楽之軒云。「筆者(小杉氏)はこれよりさき夙く漫画家として名を揚げ、純粋の画家としては未だその才を世に示すことがなかつたのであるが……」と。これは「水郷」以前(三十歳以前)の作者になぞらへていふところである。「小杉さん」即未醒はそれまでに漫画家あるひは草画家、さしゑ画家として、鳴らしたことは、どうかすると今でもその「小杉未醒」の響きを人の口にすることがある程、博大だつたものだ。小杉さんといふ人は、一身を二体に分けて前後に「未醒」と「放庵」とを持つてゐる人であるが、「小杉未醒」は古い人である。数へれば今から二昔前の、それより更に前の四半世紀にかけて、画壇に活躍し、且人口に膾炙した名が「小杉未醒」であるから――小杉さんにしても、往年を顧れば感慨少なからぬものがあることだらう。
少時日光で五百城文哉先生の門にあつた頃のことを暫く措く。笈を負うて東京へ出てからの小杉さんは、正規の画学を小山正太郎先生の不同舎に参ずる傍ら、思ふにその二十代の小杉さんは、五百城先生の門について絵だけでなく漢籍詩文の素読から叩れた骨がモノをいふと共に、向上心に富む求
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