王+干」、第3水準1−87−83]洞に個展を開いた、その会場だつたことをおぼえてゐます。その時そこの壁に、日本で初めて見る梅原良三郎の小さな首の油絵と、高村光太郎作の、男の外套をひつかけた女の半身像とがかゝつてゐたことを、これもはつきり記憶してゐます。
岸田はその琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]洞の個展へ正宗得三郎氏が来て、しきりに、油絵の売れる売れないについて話して行つたとか。「ぼくはそれでそれまで一度も考へたことの無かつた売れる売れないを考へて、神経がいぢけて、仕事に障つて弱つた」とぼくに話しました。岸田はその頃毎日一枚は必ず仕事してゐました。ぼくも毎日何かしらやつてゐましたが、間もなくフューザン会の成る前で、ぼくは「いろは」として最後の采女町に住み、こゝへはその頃洋画をやつてゐた美校の広島新太郎君なども二三度遊びに来ました。ぼくは京橋へ移つてから極く近くなつた銀座の岸田と毎日欠かさず行つたり来たりすると同時に、美校の方の、――その年卒業期だつた――万鉄五郎、平井為成、山下鉄之輔あたりと交友してゐました。このグループは葵橋でぼくと同窓だつた瓜生養次郎が中間に立つて結ん
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