、大ドブが元柳町を走つて両国橋の袂の義太夫の新柳亭のところまでずつと抜けてゐます。ある時ぼくがしよざいなさに中の間の窓からぼんやりこのドブ板を見てゐますと、雨がパラパラと来て丁度通りかゝつた、臼を車にのせたカンカチ団子屋が、暫時軒下に雨やどりをしてゐたけれども、なかなかやまないのを見て、荷物を置いたなり、すたすた尻つぱしよりで何処かへ駈けて行きました。得たりと、ぼくはすぐ外へ出て、その置きざりにしたカンカチ団子の臼の中へ、見るとすぐそこに犬の糞があつたからこれを入れて、杵でクタクタとついて、そのまゝ元の窓へ逃げ帰り、どうなることか、そつと覗いてゐました。
 残念ながらその時いつまで経つても雨がやまず、団子屋も帰つて来ないので、そのうち日もくれるし、――いつ団子屋が臼の車を曳いて帰つたかは見届けませんでしたが、明くる日になると、それがいつもの通り、カンカラカンカラ杵を鳴らしてやつて来ました、ぼくはすまして窓から団子屋が車を曳いて横町を通るのを見るといふと、杵の先きと、臼の中とが、白々しく削つてあるのです。わるい事をしたなアと後悔した心持を――その白々しく削られた木の色と共に未だに忘れません。
 画文を好んだのはぼくが子供の頃ですが、「絵かき」になつたのは、十九歳の、中学校を卒業した明くる年からです。
 両国には生れてから満十七年、中学校の五年にならうとする頃までゐましたが、それから住居が変つて、浅草にかれこれ二年程、芝三田に一二年、京橋采女町に一二年……といふ具合に転居しました。「いろは」の第八支店から第十支店、芝の本店、采女町の第三支店……といふ具合に移動したわけです。ぼくはその頃まだよく知りませんでしたが、かういふ移動は、「いろは」そのものの経済状態が年々傾きつゝあつた兆候に相違ありません。「いろは」はぼくが両国の店にゐた頃が全盛で、後にぼくが三田の店から京橋に移つた頃は、日に増し衰微を極めました。――ぼくは結局これを見るに忍びず、(経済は母の肩にかゝりますから)家を出て、独立したといふわけです。
 ぼくの父はぼくの十三の時に死んで、その後「いろは」の家業は長兄が引継いでやつてゐました。この長兄は青龍社にゐて夭折した木村鹿之助の父親です。
 ぼくは中学を卒業してからは浅草の店で、暫く店で帳場などをやつてゐました。しかし日夜いひ知れない憂悶を抱いてゐました。それは何か[#「何か」に傍点]自分もやつて見たいからで、家兄の木村荘太がその頃ほひ雑誌新思潮を通して小山内さんや谷崎さん達と文学運動をやつてゐたことは、勿論身近い刺激なりお手本になつたわけです。
 ぼくはそこで、見やう見真似に、帳場格子の中で辞書を引き引き兄キの書架から持出した英語のモウパッサンの短篇集であるとか、ゴルキーの小説などを読んだものです。一日に一度はそれをやらないと何か胸元から空気でも洩るやうなとりとめのない気がして、「勉強」のつもりでやりました。しかし一方にはまた、ぼくは帳場ですから、頭を丸角に苅つて、木綿結城の竪縞に黒の前かけなんかしめてゐます。そのなり[#「なり」に傍点]で、一日に二三円は使つていゝことになつてゐるその帳場の金を掴んでは、夜になると、浅草公園を六区の十二階下から吉原あたりまでぞめきに歩きます。無論何でも知つてゐます。
 それで昼間は後悔の為めにそはそはしながら、せめて帳場格子の中で「勉強」するといふわけです。英語の力はこれでどうやら進歩したやうです。しかし憂悶やり難く、一度は家を飛び出して、町を流して歩く新内語りにならう! と半分以上決心したこともあります。
 これを危ないところで救助したのが兄キの木村荘太です。一体家では他の兄弟(荘九、荘十、荘十一、荘十二等々)の手前もあるから、商業に従事する以外は、中学教育以上の学資は誰にも出さぬ、といふのを、荘太――これは当時総いろはの若旦那です――は、ぼくの為めに一方、小山内さんを通じて、家との交渉決裂する場合は岡田三郎助先生のところへぼくを書生に出す(?)作戦を立てた上で、家事総監督の長兄に向い、荘八を絵かきにしてやつてくれと談判したものです。
 申す迄もないが、ぼくは文学をやるか、あるひは絵かきになるか、どつちみち芸術[#「芸術」に傍点]に従事したいと考へてゐたのです。
 ところがこちらが二段がまへの強腰に当ると、家では、存外素直にぼくの絵かき志願を許しました。長兄はぼくを愛してゐたと思ひます。――これに反して同じ父方の「風流」の血に憑かれた、末弟の、荘十、荘十二等は、苦労多かつたと思ふのです。――長兄はぼくに対して、商業に従ふべく高等商業を受けさせようと思つてゐた素志に準じて、絵かきになるならば、美術学校へ入らなければならぬといふことになりました。ぼくは勇躍してたしか十九の春から、早速昼間は赤
前へ 次へ
全8ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング