吉川町一番地といふところで生れましたが、その後はこの吉川町一番地は両国界隈の何処にあつたものか、今の両国へ行つては、かいもく見当が附きにくゝなりました。僕の家は「第八いろは」といつた牛肉店で、吉川町一番地の一角を占めてゐたのです。二階の窓ガラスに五色の色ガラスをはめて、その家の有様が、明治十何年(欠字)御届とある井上安治の板画「両国橋及浅草橋真図」といふのを見ると、ほとんどぼくの記憶通りの状態に写されてゐますから、相当古くからこの一角にあつた家でせう。オヤヂがいつ時分この家を買つていろはにしたかは知りません。ぼくの兄貴は四つ年上ですが神田で生れたので、その神田橋にあつた家といふのから焼出されて、一家中、両国第八の店へ移つたのです。この家へ移るとすぐにぼくが生れたさうです。
 それで極めて幼少の頃、明治三十年見当の両国界隈の様子は、知る由もありませんが、ぼくのものごゝろが付いてからは、吉川町の一角、ぼくの家の軒隣りに、そこから家並みが東へ両国橋の方へ折れ込んで両国広小路の列びとなり――といつても、これも現在の両国広小路(電車通り)とは違ひます。一体両国橋そのものが昔の木橋から見ると、現在の橋はその位置が少し北寄りにずれてゐます。――それで旧両国広小路の軒並みは、角店《かどみせ》のぼくの家から鍵なりに、通りを煙草屋、玩具屋、そば屋の長寿庵、足袋商の海老屋……と順になつてゐます。そこまでが吉川町一番地になつてゐたわけです。
 ぼくの家の正面と煙草屋の側面との間には互ひの建築上の関係で空間が出来るわけでしたが、そこを体裁よく埋める為めに大きな一枚板の広告掲示板がとり付けられて、――これは井上安治の真景にはありませんから、後になつて取り付けたものでせう――これに、団十郎の弁慶が巻物一巻をひろげてすつくと立つてゐる図の、煙草のオールドのペンキ絵が一杯にかいてありました。
 このオールドのかんばんを日夕親しく記憶してゐます。――そしてこの大かんばんの下に木の駒よせがあつて、柳が植わり、この柳蔭に、いつも供待ちの人力が十台近く並んでゐたものです。車夫が赤に黒筋の二本はひつた毛布をからだに巻いて、冬の空つ風の吹く日など、自分々々の車の蹴込みにうずくまつてゐる光景を、これもまざまざと記憶します。
 ぼくの家とその車夫のたまりとのしやあひ[#「しやあひ」に傍点]には何か凹字形のくぼみがあ
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