卿が三田四国町ニ動物育種場及び動物市場ヲ官設サレ、府下一ヶ所ヲ限リ、諸獣屠殺場ヲ新設シ、以ツテ模範タラシメントセラレ……」かういはれたやうな事業に父が関与したのは、明治十一年からのことと聞き、川路大警視からの手引きで三田界隈のこの事に手を染めたのが「牛鳥」に関係するはじめだつたといふことである。
それからぼつぼつ市内に「いろは」牛鳥肉店が開店しはじめたであらう。この「いろは[#「いろは」に傍点]」の命名は、物事のはじめのいろはから来てゐたといふことで、やがて転じて、いろは四十八店[#「四十八店」に傍点]を市内に建てる念願といふことに転化されたものらしく、事実、「いろは」は市内目貫きの各所に、順に何号支店といふ工合に号を追うて増店され、ぼくの生れた家は、その第八番目の支店で、明治十九年に父の開店するところとなつたといひ、当時「千円若干」の金で元の所有者から買取られたといふことを聞いてゐる。当時の千円はその後のどの位の価格となるであらうか、初め父が芝三田に借入れた、何んでも元来は某大名屋敷だつたとか云はれる家は、――諸獣屠殺か競馬かに関して借入れたものであらう――月九十円の家賃だつたとか伝聞する。
ぼくのそのいろは第八支店に生ひ立つたころほひ(明治二十六年以降)がこの商店の興隆期に際会するものらしく、子供心にも、年々何号何号の支店が増えつゝあつたことを心うれしく聞いてゐた。
「遠路之御厭ひなく御来車且つ御用被仰付日増に繁昌候段有難仕合に奉存……」
といふやうな書き出しを以つて、新しく神田連雀町へも店を設けるといふ広告を読売新聞に出したのが、明治二十年のことだ。この広告にはまだしかし店は「五軒」しか載つてゐず、次は深川高橋に支店を用意してゐるといふことで結んで、
「行々は府下各所へいろは四十八店を開業仕候間……」
さう切り出したのが、このごろのことだらう。まだぼくの「第八支店」はこの時の広告文章の中には数に載つてゐない。
それが越えて明治二十五年(ぼくの生れる前年)になると、市内のいろはの店々へ無料広告を扱ふから各有志の方々にお申出を待つといふやうな広告募集を時事新報へ載せて、「但シ広告ハ粗美ヲ編セズ、枠附額面仕立ニテ、高サ一尺八寸、幅二尺以内」云々と定めた。この時の広告文字中には、支店連名としてぼくの第八支店も出てゐるのである。店が明治二十年以後間もなく創業になつたことは、これに依つて間違ひない。
やがて後年に――これはぼくの年齢にして相当よく記憶にあることだから、明治三十年後のことであらう――
上野山下の旧「がん鍋」を手に入れようとして、成らず(その理由はぼくは詳しくしない)、それで「浅草」にも「日本橋」にも「両国」にも大体市内の目ぼしい個所には店があるのに、上野[#「上野」に傍点]にだけは結局いろはの無かつたのは、そのためと、後々までも家人の一つ話となつてゐたことが耳にある。がん鍋はその家のありやう[#「ありやう」に傍点]はぼくの如き当時年少で詳知しないけれども、錦絵などでは見る家の、その名は幼少からよく聞いてゐた名代の店屋で、維新の彰義隊騒ぎに、籠城の士がはじめにこのがんなべの屋上から官軍を防戦したといふ話など喧伝される、古い家である。――間違ひでないとすれば年少ぼくの記憶では、そのがん鍋を手に入れかねたといふ時分から、そろそろ、いろはもその「全盛」を下らうとしたものではなかつたかと考へてゐる。父が急逝したのはぼくの十四歳の春であつた。
明治十九年に「いろは」第八支店を父が経営したといふが、数へればそれはぼくなどの生れる八年前のことで、そしてその当時からすでにこの家は前通り二階に五色ガラスの装飾障子を持つてゐた[#「その当時からすでにこの家は前通り二階に五色ガラスの装飾障子を持つてゐた」に傍点]といふが、丁度図中に「明治十○年○月○日御届」とある、井上安治うつす版画に、この家の五色ガラスせる前面の様子を写したものがあるので、類推の手がかりとなる。
思ふに父はこの家を手に入れると、早速、家全体の「五色ガラス」装備をしたことであつたらう。この家はいろはになる前は元綿屋であつたといふが、綿屋に五色ガラスの装飾障子は要らなかつたであらう。
こゝに一つの疑問は、井上安治のこの版画を「御届出」でた明治十○年[#「明治十○年」に傍点]といふ、その○年の「数」であるが、十代とすればギリギリに勘定して丁度「十九年」の、ぼくの父がこの家を改装?した年限に当るとして、しかし元々果してこの「十○年」が正確な「十何々年」といふを現はす年数の指示だらうか、一つにはこの版画が「両国大平板」とあるので、図のいろはの裏手に当つた大平錦絵店からこれが発行されたことがわかり、大平がそのころそこに盛業してゐたことが示される。画者井上安治は小林清親門
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