築されたのはぼくの小学校時代だつた。(そして客のない時には概ねこゝがぼくの遊び場だつた。)――この三階から本屋の総二階にかけて、その正面及び側面見つきの、ガラス戸といふガラス戸が、全部、五色の色ガラスを市松にあしらつたものだつたが(一階は五色ではなく、普通ガラスだつた)、思ふにこれも家を西洋館めかしく仕立てる装飾目的の、いはゞ、ステインド・グラスといふ見込みだらう。ガラスは外国製品だつたやうである。飛び飛びに白の無地を交へて、クリムソン・レーキ、ウルトラマリン、ビリジヤン及びガムボージの各色を配した。
 陽の当る時には、いつもそれ等を通して屋内の畳へ落ちる色とりどりの斜影が美しかつた。殊に黄色が冴え冴えとして美しかつた。そして、この五色の市松になつた、いろはのガラス障子[#「いろはのガラス障子」に傍点]は、その中に育つたぼくから云ふのではなく、当時これをはた[#「はた」に傍点]見た先輩諸君の言葉に聞くに――最近辰野さん(隆博士)や佐藤春夫さんに逢つた時の偶然の話にも、これが出た――一種の「東京名物」だつたやうである。といふのが、市内の方々にあつたいろは各支店が、何れも同様の装備をしてゐたから。
 今ぼくがこゝに考へようとするのは、かう云つた五色ガラスの家屋装飾が、何から来たゞらうといふことである――。
 ぼくの父木村荘平(明治三十九年歿、六十七歳)は「いろは」牛肉店の経営だけが、その仕事ではなく、製茶貿易、諸獣屠殺、競馬、火葬場経営等々……いろんな方面に関係のあつたもので、競馬と屠獣の関係で三田四国町を開いたり(明治十二年)、町屋に火葬場を建てたり(明治二十六年)、甜菜の製糖会社であるとか(明治二十一年)、その同じ年まで日本麦酒会社の社長を仕め、蛹《さなぎ》を用ゐて機械油を作る計画に与つたり(明治二十三年)、さうだと思ふと羽田の穴守に稲荷を祭ることなど率先してゐる。むしろ牛肉店のいろはは何れかといふに「枝」に当つた事業のやうなのが、ただ却つて「枝」が日に日にの現金収益を以つて「当つた」それと同時に「目立つた」といふ形ちであつたらう。明治三十年代にはその全盛に及んで、そのころ年々のとりのまち[#「とりのまち」に傍点]に店員全部が隊を組んで大鷲神社へ練り込んだことは、ぼくもその行列に連なつておぼえがある。
「諸獣屠殺」と云つたやうな、そのころの官令を以て「……大久保内務
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