うと思はぬ時は無かつたのである。どうもバツが悪くて、それを果さないで居る間に、もう渡さうにも渡すすべが無くなつてしまつた。その店や、ル・モンドだけに限らない、その一廓にかたまつて営業してゐた商店の殆んど全部が急に店を畳んで立退いてしまつた。
 記憶は、まだ、いくらでも有る。
 たとへば、あの小さな煙草店にいつも坐つていた少女の顔に在つた、おびただしいソバカス。靴屋には十二三の小僧がゐてこれが始終水ばなを垂らしている。両手の指は霜焼けでふくれ上り、それを靴の修繕をする際に金槌で以つて時々あやまつて叩きつぶすのではあるまいか。血がにじんで、くづれてゐるのである。又極く最近、洋品屋にカラー・ボタンを買ひに入つた事がある。するとふだんは如何にも気の好ささうに店先の二畳ばかりの畳敷に背をまるめて坐つて、薄眼を開いた眼で往来の陽差しをウツラウツラと見ながら店番をしてゐた四十恰好のおかみさんが、その日はどんな加減からかひどくプリプリしてゐて、一言の愛想も無く僕の出した代金を引つたくる様にして受取りながら、奥の間にシヨンボリ坐つている亭主――僕も見知つてゐる――の背中に向つて、噛み付くやうな句調で言ふのである。
「だつて、あんた、さうぢやありませんか! こいだけの店を張つてさ、そいで、やつとおとくいさんも出来たと言ふのは、なかなかの苦労ぢや無かつたんですよ! 食ふや食はずで、こうして四年近くと言ふもの、なんの為めに働いて来たんですよ! それを、三百や四百の権利金でもつて、たつた今立退いて呉れだなんて! 立退料ともで、たかだか五百円ですつて? へん! いくら先方は金が有つて、食堂だかデパートだか、なんだか知らないけれどもさ、そんな、そんな乱暴な話つて有るもんか! 此処を立退いたら私達親子六人、なんで食べて行くんです! 四百や五百、アツと言ふ間になくなりますよ、ほんとに! 先方は金持だかなんだか知らないけど、そんな話あ、極道だよ! 極道が此の世で通ると思つて居るのか! ほんとに、馬鹿にしやがつて!」
 唯ならぬおかみさんの見幕に驚いて僕は直ぐに店を出たから、なんの事やらそれ以上わかりやうはなかつたが、すると此の辺を誰かが買収にでもかかつているのかと思つたものだが、あれから十日と経たないのに、現に此の洋品屋もなくなつてしまつて、跡は戸をおろして釘附けにでもすることか、殆んど開けつぱなしのまま、人気が無くなつている。思ふにお神さんのいはゆる「極道」が通つてしまつたのであらう。
 十軒ばかりの店がスツカリ空家になつてしまつている。営業をしているのかどうかは知れないが、とにかく元のままで店を開けているのは、角の酒場と、その二階の旭亭撞球場の二軒だけだ。
 あつけに取られると言ふのは此の事だ。盛り場の裏通りの、木造建の此の一廓が、急にヒツソリとしてしまつたのは、寂しいと言ふよりも、いつそ異様な位に感じられる。
 それも昼の間や宵の口は、附近が人々や騒音でゴツタ返しているから、まだよいが、夜更けになると、シンとするし、まるで廃墟のやうに、やりきれない光景になつてしまふ。
 ところが今夜は、その二階の旭亭がひどく賑やかだ。
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[#3字下げ]第一幕 ビリヤード旭亭内[#「第一幕 ビリヤード旭亭内」は中見出し]


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場内一杯に音楽、――アコーデオンに依る急テンポのダンス曲。それに拍子を合せてタタ、タタツ、タツと床を叩くタツプの響。やがて男声テノールの唄。

開幕。
ガランとさびれ果てたビリヤード室。周囲には汚れた椅子、長椅子、ゲーム台、キユー台等。正面奥に三つの窓、既にカーテンもさがつて居ないので、そこからは深夜の盛り場のネオンが低く覗いてゐる。下手横に階下へのドア。室内上手の部分は一段高くなつて畳敷になり、その奥はカーテンで仕切られて見えず、右の隅は押入れ、カーテンと押入れの間は狭い通路(裏梯子へ)、二台の球台中一台だけが正常な位置(下手寄り)に据ゑてあり、他の一台は壊れて使へないか奥上手に片寄せられてゐる。その跡の広い場所で、いづれも水着一枚きりの裸体を汗みどろにして三人の若いダンサーが、タツプダンスを踊り抜いてゐる。中の一人、時々ハイツ、ハイツと掛声を掛けてゐるのは、此の旭亭の娘(千代――通称ミル)。若い洋服の男(田所修)が奥の球台に腰をかけ、窓の外(舞台奥)をチラ/\見下ろしながらアコーデオンを弾き唄つてゐる。三人のダンサーと同じ劇団のテノール歌手である。畳敷の所に横坐りに坐つて、酒のコツプを時々口へ持つて行きながら、右の四人をニヤ/\しながら見やつてゐる三十四五の小麦色の肌をした女は、此処の主人の妾(お辻)。――タツプダンスと音楽は続く。
アコーデオンとダンスの拍子がヒヨイと狂う。
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