見るが、別にドギマギもしないで修の前から歩き出す。
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お辻 ……あんた、まだ起きてゐたの?
声 うむ。……うん。
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お辻、畳敷の方にあがつて行き、カーテンを引開ける。寝床の上に横になつた主人の正宗彦六が、女を見上げてニコニコ笑つてゐる。五十六七の男、枕元に手廻りの道具等。
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お辻 眼が覚めたんなら、さう言やあ、いいじやありませんか。
彦六 ハハゝゝゝ。……いや、私に遠慮はいらんよ。ハハ……
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お辻、修へヂロリと眼をやり、テレかくしに頭髪の根を櫛でゴシゴシ掻いてゐる。
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彦六 (修に)やあ、おいで。
修 はあ、今晩は。……いかがですか?
彦六 ありがたう。どうも朝から晩まで、かうしてゐるんだ。あんたも毎晩御苦労様だ。お千代の奴が無理ばかりお願ひして。
修 いえ、ミルさんは熱心だから、此方も張合ひがありますよ、それに僕の稽古にもなりますからね。小屋でやればいいんですけど、ハネると規則で一人残らず追出されちやうんで……。
彦六 いや、営業してゐると言つたつて、一日せい/″\五六人の客があるきりだ。却つて賑やかでいい。しつかり仕込んで下さい。
お辻 そりやさうと、どうするの? こうして今まで腰を据ゑてゐるのは、もう、うちと階下の鉄造さんとこの酒場の二軒だけですよ。それも鉄造さんちぢや、うちさへ立退けば今夜にも一緒に引払ふと言つてんぢやないの、全体この先どうするつもり?
彦六 それを私に聞いたつて、わかりやしないよ、自分の内だから、かうして居る迄さ。
お辻 (ヂレて)チエツ、いやんなつちまふ。それに借金も借金だしさ。あたしや――
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そこへ左のドアから、四十七、八の血色の良い井伏鉄造があわててキヨロキヨロしながら入つて来る。
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鉄造 ……お辻さん、あの、チヨツト――
お辻 どうしたの?
鉄造 松田さんの委任状を持つた仕事師がやつて来てね、この家の向うの角から取壊しにかかるから、さう思つて呉れと云つてるんだ。
お辻 へえ? こんな夜中に?
鉄造 昼間だと近所が迷惑するからと云ふんだよ、ねえ旦那、どうしたらいいんですかね? え?
彦六 ……さあ。……困つたねえ。
鉄造 困つたぢやすみませんよ、先方ぢや、ああして解つた話をしてゐるんだから、アツサリ私等と一緒に立退いて下すつてもいいぢやありませんか! それをかうしてギリギリのどたん場まできておいて今さら……(オロ/\声である)
彦六 さうさなあ……だが、あんたは何もこつちにこだはらずに立退きあいいぢあないかね。
鉄造 そ、そ、それだ。直ぐに、それだ。今更になつて、そ、そんな薄情な事を――あすの朝早くでも、御一緒に早々引払ふやうに、ひとつ、考へて見て下さいよ。お願ひですよ。大体、先方から頼まれてお百度を踏んでやつて来てゐる白木と云ふ男の正体を、旦那知らないから平気でゐらつしやるけど、白木軍八郎と云へば新聞も持つてゐれば多勢の子分も持つてゐるし、かうした事にかけちや鳴らした事件屋なんですよ。あの男の手にかかつたら、万事おしまひですぜ。ごらんなさい、あれだけ居坐らうと申合せをして居た此の建物中の小店十一軒と云ふもの、白木が乗り出して来たら、ひとたまりも無く立退いてしまつたぢやありませんか。
彦六 話はおとなしさうな人だがな。
鉄造 そいつが曲者なんでさ、腹の中はどうしてどうして、山の手一帯の土地家屋のブローカー仲間では「蝮蛇《まむし》」で通る男ですよ。
彦六 鉄さん、ひどくおどしに掛けますねえ、ハハハ、さては白木さんから頼まれたね。
鉄造 (怒つたやうな口調で)じよ、冗談云つちやいけませんよ。な、なんで、あんた、これだけこちらさんに忠義を尽してゐる私をつかまへて――
彦六 いやあ、これは冗談ですよ。ハハ、どつちせ、まあかうして自分でごろ/\して居るぶんには、まあ誰にとがめられる事も無からう。追ひ出されりやノタレ死をしなきやならんからねえ、人様の畑の物を盗み食ひをしてゐる雀とは違ふから、案山子にびつくりして逃げ出すことも無からう。
鉄造 なんですつて、案山子ですつて? ぢあ、旦那は私のやつてゐる事を――
彦六 たとへ話だ、気にしちやいけません。とにかく、だから、あんたの方は、私にはかまはず引払つて下さいと云つてゐるんだ。事実、かうした病気で動きたくも動けはしないし、なさけ無い話さ。
鉄造 そ、そ、そんな意固地な、ねえ正宗さん、私あ、あなたの為めを思つて――
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階下の酒場の女給のアサが急いで入つて来る。廿四、五の野生的な女。
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アサ (戸口に立ちはだかつたまま眼はお辻の顔を射抜くやうに睨み詰め〈据ゑ〉
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