郎 渡してゐます。……どうしてそんな事おつしやるんですか?
母親 いや、それならいゝんですけどね、なんだかあんまり内輪の人間みたいに、馴々しいと言ふか……。
五郎 さうでせうか? でもあれは美緒をしんから大事にして呉れてゐるんです。
母親 そりやさうの様だけど。……でも美緒も、なんであんなに近頃神経を尖らしてイライラするんですかね。あれぢやまるで話もなにも出来やしないんですものね。(五郎答へない)
恵子 五郎さん、先刻誰か来てゐたやうよ。なんか商人みたいな恐ろしく鼻のペチヤンコの中年の人だつたわ。小母さんが相手になつてチンプンカン言つてたわよ。
母親 いつか来てゐた乾物屋らしかつたぢやないか。
五郎 ぢや裏天でせう。僕が間も無く戻りますから。
母親 でも、あなたとは先刻の話をしたいから、こちらが済んだらチヨツト此処にゐてくれないと――。
五郎 さうですか……。
恵子 (沖を指して)母さん、汽船が通るわ。
母親 へえ、綺麗だねえ、まあ! (と言ひながら二人は浜伝ひに向うへ消える)
尾崎 ……妹さんは相変らず綺麗だな。……なんだい、先刻の話と言ふのは?
五郎 う? ……うん、なあに。
尾崎 めんどうな話らしいぢやないか。そんなら僕あもう帰つてもいゝよ。
五郎 さうか、済まなかつた。とにかく月末まで待つてくれ。必ずなんとかするから――。
尾崎 しかし、なんだらう、何とかすると言つても結局好文堂の仕事を余分にさせて貰ふんだらう?
五郎 うんまあ、それ以外に差当り方法は無いから――。
尾崎 まあ月末にや、とにかく当てにして来て見るにや来て見るつもりだけど、でも僕の方の事だけなら、あんまり無理をしてくれなくともいゝよ。僕の言つているのは、君が毛利さんのすゝめを無にして水谷先生の方をうつちやる事になれば、毛利さんだつてあんまり良い気持はしないだらうし、もともと毛利さんは好文堂では仲々顔が利くらしいから、君のそつちの方の仕事もまづくなるんぢやないかなあ?
五郎 ぢや、仕事をことわるとでも言ふのかい?
尾崎 さあそんな事も無いだらうが、事変以来絵が売れないで困つて内職を捜してゐる画描きがいくらでも居るからなあ。
五郎 ……まさか、あの毛利がそんな酷い事はしないよ。そんな点では彼奴は絶対に信頼の出来る男だよ。
尾崎 さうかね。……でも結局どう言ふんだね、絵本の方は描いて水谷先生一派には入りたく無いと言ふのは、わからんがなあ? まさか、水谷先生が君にインチキ画を描けと命令するわけぢやあるまいし、君の描く画の批評だつてしやすまいと思ふんだが? 又批評されたつて、水谷先生は水谷先生、君は君で、お互ひに一家をなした画家なんだから、自由に仕事をすればいゝぢやないか? 大体、画の仕事の上で、水谷先生位を怖がる君でも無いだらうし、怖がる必要もないと思ふがなあ。君なんぞ、あらゆる意味で水谷清次郎なんか、当の昔に卒業しちやつてるもんな。もつとも先生が今君を欲しがつている理由も実は、そんな君の実力に在るんだが。……とにかく、どんな点から言つても、なんで君が彼処《あそこ》に行くのをそんなに嫌がるのか、僕にやわからん。
五郎 ……俺にや当分画が描けんからだ。
尾崎 だからさ。彼処に行つて金になる仕事を分けて貰へば描けるやうになるぢやないか。先刻言つた本質的な行詰りと言つたやうなものも、周囲の空気で打開出来るんぢやないかしら。君は少し大袈裟に考へ過ぎてゐると思ふんだ。
五郎 ……それに、俺あ、水谷さん嫌ひなんだ。
尾崎 子供みたいな事を言ひたまふな。君が先生を嫌ひな事は初めから知つてゐるよ。しかし、好き嫌ひが何だい? そんな変な事ばかり言つてないで本当の事を聞かしてくれよ。
五郎 ……ぢやね、尾崎君、君も本当の事を聞かして呉れ。俺あ不思議でならないんだ。水谷先生、なんでそんなに俺を欲しがるんだ? 先生は以前に俺の画をクソミソに頭からくさした人だよ。そりや、いゝんだ。世の中にはどんな批評だつて有るから、どんな筋違ひの事を言はれたつて、俺あ構はん。含んでゐるわけぢや無いんだ。たゞそんなに言つてゐた俺の事を、なんでそんなに欲しがるんだか、俺にや腑に落ちないんだよ。
尾崎 そいつは先刻言つた。あの人が君の実力を認めてゐるからだよ。昔いくら悪口を言つたつて、いや、つまり認めてゐたから悪口を言つたわけだが。……いや、君がそこまで言ふなら、モツト本当の事を言つちまはう。もつとも、これは半分以上僕の解釈だから、そのつもりで聞いてくれ。いゝかね。それは、一言に言つちまうと新水会で現在水谷さんの占めてゐる位置のためさ。……君あ多分知るまいが、今新水会の内部は審査員や会員の間の勢力争ひの暗闘で大変なんだ。以前からそりや有つたが、最近文部省展覧会が大々的に組織変へになる筈になつてゐるんだ。それに
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