から俺は、返さないなんかと言つてやしないぢやないか!
尾崎 結構だ。今僕の言つてるのは、君にしても、左翼の連中にしても以前のイデオロギーで世間に約束した借金をちつとも返さないと言ふ事さ。踏み倒し過ぎるんだ。
五郎 ……一言も無い。……しかし、そんな連中は、その後、世間的には黙つてゐても、自分だけで自分の身体で以て昔の借金をなしくづしに返してゐるかも知れないよ。
尾崎 すると、さしづめ君もその一人かね?
五郎 或る意味ではさうかも知れんな。……あの時代の生活の無理がたゝつて女房は病気になつてるし、俺あ画は描けなくなるし……そんな事よりも人間が生きてゐる事自体に対してこんな風に確信がグラつきかけて来て、死ぬ苦しみをしてゐる。……見やうに依つては昔の自分……昔の自分の生活や物の考へ方から散々に復讐をされてゐる状態だとも言へるからね。……ざまを見ろと言つたテイタラクさ。しかし、そいつは、とうに自分が自分に言つてゐる事だ。君なんかから何か言はれたつてチツともこたへやあしないさ。
尾崎 しかし、そんな有様をみてゐれば、おかしくなるのは、これ、仕方が無いからね、ハツハハ。さうぢやないか? 僕に言わせりや、そんな風に、後になつて自分の事をざまあ見ろと言わなきやならん様な事を自分にさせるものは要するにセンチメンタリズムなんだ。回収の利かない金を、一時感情的にホロリと来て貸してしまふのは、よした方が、いゝと言ふ事さ。
五郎 君の言ふ事を聞いてゐると、俺に君の丁稚になれとすゝめてゐるやうに取れるな。
尾崎 さあね、さう取つて呉れてもいゝや。金貸しと言ふ商売も君が思つてゐるやうに軽蔑すべき商売でも無いよ。第一これが無いと君達が早速困るぢやないか。アツハハハ、いや、これは冗談だがね。要するに、君の才能を惜しいと思ふから、こんな事も言ふのさ。君が昔、左翼の方に近寄りはじめた頃だつて、水谷先生や毛利さんなど君の事を惜しい惜しいと言つてゐたものな。
五郎 (腹の底から怒りを辛うじて押へながら)その事を言ふのは、もう止さう。
尾崎 ……(ハツとして相手の表情を猫の様にうかゞつてゐたが)よせと言へば止すよ。……たゞ現在の君の気持だつて、やつぱり似たやうな一種のセンチメンタリズムぢや無いかしらんと言つてゐるまでだ。君から画の仕事をさつ引けば、一切が無くなるんだよ。一切だよ――。
五郎 君にや、わからん!
尾崎 だつて君……(と尚も言ひ続けようとするが相手が殆んど爆発直前の顔付きをしてゐるのに気付いて、黙つてしまつて、マヂマヂと見守つている。しかし五郎の怒りは直ぐに尾崎からもつと別のものに移つて行つたらしく、尾崎の存在など忘れてしまつて、ギラギラと光る眼で沖の方を見詰めたまゝ、黙つて考へてゐる)
 (間)
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 街道の方から母親と恵子が砂を踏んでブラブラ歩いて来る。
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恵子 ……ああ、こんな所に居たのね?
母親 お客が来るといつでも此処にお連れして話してゐなさるんだよ。美緒の安静をこはさないやうにね。此処が応接室だつてさ。ホツホホホ、ねえ五郎さん。
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五郎考へ込んでゐて返事をしない。
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尾崎 やあ、こりや、暫くでした。今日はお見舞ひですか。
母親 いゝごきげんですわね。こんな広々した所でお飲みになると、さぞ気持のおよろしい事でせうね。
尾崎 つい久我君がすゝめて呉れるもんですからね、ハツハハ、飲み助は意地がきたなくて。(と恵子に目礼をして、ひどく愛想が良い)えゝと、たしか、津村さんの――?
恵子 はあ。(これまでホンの一度か二度チラツと見たきりの相手があまり馴々しいので、妙な顔をしながら)……いつも義兄達が御厄介になつてゐまして。
尾崎 そ、そんな事をおつしやられると穴にでも入らなきやなりませんよ。なあに旧い友達なもんですから、まあ自分に出来るだけの事をしてゐる迄で――。(母親に)なんですかねえ、御病人がハツキリしないさうで、御心配ですねえ。
母親 はい、いゝえもう、なんですか……ホホホ。(久我が美緒の療養のために、金を借りてゐるらしい此の男にかかり合つてゐると、その借金の責任が自分にもかぶつて来さうなので、相手にしたく無いのである。)……何か御用談でせう? 恵さん、私達は少しその辺を歩いて来ようぢやないか。(歩き出す)
恵子 (描きかけのスケツチ板を変な顔をして見てゐたが)えゝ。
五郎 ……あのう、美緒は飯を食べちまつたんでせうか?
母親 もう済んだやうですよ。でも、あの小母さん、あんなに美緒を笑はしてばかり居て、病気に障りはしないんですかねえ?
五郎 いや、そりや構はないんです。機嫌が良いと食慾がつきますから。
母親 小母さんの月給はチヤンと渡して呉れてゐるんでせうね?

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