、今、かうして半ば好意から旧い知り合ひの此の家に働きに来てゐる身分である。眼をズルさうに輝かしながら)ヘツヘヘヘ、奥さん、これ、見なはれ!どうや!
美緒 ……(両手の指を全部パツと開いてビツクリした事を示す)
小母 これで今夜のおさいがでけた。三枚におろして、サシミを取つたり残りをおツユにしてあげまつさ。
美緒 ……? (手真似で魚はいくらしたと訊ねる。唖かと思はれる位に手真似の会話に馴れてゐる。絶対安静中は声を出してはいけないと命じられてゐるし、又、此の小母さんに聞える位に大きい声を出すことは彼女には既に困難になつてゐるのだ)
小母 これで八銭どす! 十五銭と言ふたのをチヤツと八銭でまき上げてこましたわ。凄腕どすやろ!
美緒 ……(うれしがつて拍手をして見せる。しかし銭のなかつた事を急に思ひ出して、心配さうに指で丸を作つて見せて、代金はどうしたと訊ねる)……?
小母 へ? アハ(と手を大きく振つて)大丈夫、大丈夫! そないなものミソカでよろし。
美緒 (非常に低い澄んだ声。この時だけで無く彼女の声は始終ひどく低く小さい。高く大きな声はもう出ない)だつて、小母さん、あの魚屋さんには、もう二ヶ月も払ひが溜つてゐるんぢやなくつて?
小母 (美緒の言葉は耳に入らない)そんなもんミソカでよろしおす。これ位のことグズグズ言ふやうでは、あきうど[#「あきうど」に傍点]冥利に尽きますえ。
美緒 ……(手で小母さんの片方の耳を引つぱつて自分の口の近くへ持つて来て)……だつて、あのね、あの魚屋さんには、もう二ヶ月も溜つてゐるんでせう?
小母 へ? へえ。なあに、二ヶ月位が、なんどす! 三十円や四十円、みんながみんな払はんと逃げ出しても大事おへんわ! それ位の儲けは此の二年の間にチヤーンとさせてありますがな!
美緒 だつて、そんなわけには行かなくつてよ。
小母 奥さんは、そないな心配せんと置きやす。余計な心配おしなすから、五郎はんに年中おこられはる。ええか! お金なんぞ全体なんどす? 有る所へ行けば、いくらでも有りますがな。今に五郎はんがターンと絵を描きはつて、トクマン円でもなんでも儲けて来てくれはりますがな。
美緒 ……(嬉しさうに、しかし同時に寂しさうに微笑んでゐたが、やがて湯殿の方に眼をやる)
小母 クヨクヨしたら、あかん! 奥さんは大々名にならはつた気でソツクリ返つて空でも眺めて暮してゐなはれ。五郎はんはこんな綺麗な海水帽も買うてくれはるし、奥さんが心配なさる事など、なんにもあれしまへん! さうどつしやろ!
美緒 うん……(耳を引つぱつていた手で小母さんの頭を撫でる)
小母 (自分も左手で美緒の腕を撫でゝやりながら)さうどすえ! 威張つてゐなはれや。そしたら、あてが此の弁で以てな、魚屋でも米屋でも、裏天はんでもベラベラとだまくらかして、あんじようしてあげまつさ。向うが、何かウダウダ言ふても、あてはツンボーどすよつてに、なんにも聞こえへんのどつせ。太平楽どす。アハハハ。
美緒 小母さん、ありがたう……。(涙)
小母 なんどす? ……ほらほら、又、泣かはる! それがいかん! 五郎はんおこられはるぜ。コラアツ!(眼をむく)
美緒 ……ハツハハ(こらへてゐたが笑声を出してしまふ)
小母 アツハハハ、かうどすやろ?
美緒 ……(クスクス笑ひつゞける)
小母 ハツハ、さ、お午の支度や。……だが、なんだすなあ、近頃兵隊さんチヨツトもお見えになりまへんな? 兵隊さん見えんと五郎はん、なんやら寂しさうにしてはります。どうぞなさつたかいな? もしやすると、いきなりもう出動なさつてしもたんではないやらうか?
美緒 さうぢやないの、今度の日曜あたり見えるさうよ。東京から伊佐子さんも来るさうだから、此処で赤井さんと落合ふ事になるわ。
小母 どすかいな? でもいくらお上の事でも、それぢや、あんまりではないかいなあ。
美緒 いえ、だから、この日曜には赤井さん御夫婦が来て下さるのよ。
小母 どすかいな? でも日曜日に、東京の御親類の皆さんがお見舞ひなんぞに来て下さるのも、もうよろし! 皆さんがお見えると、後、奥さんがキツトお加減が良う無いのどすさけ。(話がトンチンカンになつてしまふ)
美緒 さうぢや無いの、あのね……(自分の声では話が通じないのでガツカリして、再び小母さんの耳を引つぱりにかゝる)あのね、兵隊さんは、此の日曜に……。
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言つてゐる所へ、湯殿のガラス戸が、ガラツと開いて、運動シヤツ一枚にサルマタ、手拭で向ふ鉢巻をした久我五郎が出て来る。一仕事終つた後のホツトした気持で何か旧い外国の民謡を唸るやうな声でハミングしながら。両手はポスターカラアで汚れ、顔や胸から汗がタラタラ流れてゐる。湯殿をアトリエ代用にして絵を描いてゐたのである。しつかり
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