ヨクヨする事あ要らん。
美緒 ……万葉……また……読んで……。
五郎 疲れてゐるから、後にしよう。……少し眠つたらいい。
美緒 ……いゝの……読んで……。
五郎 さうか、……ぢや、眠くなつたら、聞きながら寝ちまへ。(本を取り上げて開ける)……えゝと、(朗読)人麻呂《ひとまろ》。ぬばたまの黒髪山の山菅《やますげ》に、小雨降りしき、しくしく思ほゆ。……ぬばたまのは枕言葉。菅の草に小雨がシトシト降つてゐるのを見てゐると、恋人の事がしみじみ想はれると言ふんだ。ぬばたまの黒髪山の山菅に、小雨降りしき、しくしく思ほゆ。……同じく。大野《おほぬら》に小雨降りしく木《こ》のもとに、時々より来《こ》、吾《あ》が思ふ人、いゝな! 野原に小雨がシヨボシヨボ降つてゐる、その木の下に自分は今立つてお前の事を考へてゐるが、時々はお前も此処にやつて来ないか。大野《おほぬら》に小雨降りしく木《こ》のもとに、時々より来《こ》、吾《あ》が思ふ人。……どうした? どうかしたのか? おい! おい! 美緒! (声が次第に高くなる)
美緒 ……(昏睡状態に陥ちてゐる)
五郎 おい、美緒! こら! (いつぺんに真青になつて患者の脈を計る。ハツとして、美緒の頬に手をやつて、ゆすぶる)……おい! 美緒! 美緒!
小母 (洗面器に水を汲んで台所から持つて来たが、五郎の様子にビツクリして)どうしやはりました?
五郎 (小母さんの肩を掴んで、その耳元に口を寄せて)小母さん! 走つて医者を呼んで来て下さい! カンフルの用意! ……カンフル! カンフルです! とにかく、その用意をしてきてくれ! さう言つて! 早く! 早く!
小母 へ? ……へえつ!(と、いきなり洗面器を下へ置いて玄関から走り出して去る)
五郎 美緒! 美緒!
美緒 ……(ボンヤリと眼を開けてニツコリして)もつと、……読んで……。
五郎 しつかりしろ! 馬鹿! なんだ、これ位の事が、なんだ。馬鹿野郎! 俺を見ろ! 俺の顔を見ろ!
美緒 ……なあに? ……もつと……読んで……。
五郎 いゝよ、いゝよ、もういゝよ! 馬鹿! 俺を見て居ろ! こら!
美緒 ……眠い。……読んで……くれないと……眠い……。
五郎 よし、ぢや読んでやる! だからチヤンと聞いて、目を開いてろ! いゝか! 眠つちまふと承知しないぞ! 俺を見てろ! (右手では美緒の脈を取りながら、左手で本をデタラメに開いて、ブルブル顫へるような声で朗読)いつしかと待つ吾が宿に、百枝《もゝえ》刺し生ふる橘、玉に貫《ぬ》く五月《さつき》を近み、あへぬがに花さきにけり、毎朝《あさにけ》に出で見る毎に、気緒《いきのを》に吾が思《も》ふ妹に、まそ鏡《かゞみ》清き月夜に、たゞ一目見せむまでには、……美緒! おい! いゝか! 聞いてるか? わかるか?
美緒 ……(朦朧とした状態のまゝ、かすかにうなづく)
五郎 (殆んど叫ぶやうな声になつてゐる)眠るな! 眠つちやいかん! 馬鹿! 聞くんだ! 大伴|家持《やかもち》だ。畜生つ! たゞ一目見せむまでには、散りこすな努《ゆめ》と言ひつゝ、幾許《こゝだく》も吾《あ》が守《も》るものを、慨《うたて》きや醜《しこ》ほとゝぎす、暁《あかつき》の心悲《うらかな》しきに、追へど追へど尚ほし来《き》鳴きて、徒《いたづら》に地に散らせれば、術《すべ》をなみ攀《よ》ぢて手折《たを》りて、見ませ吾姉子《あぎもこ》。反歌。……美緒! 畜生! 美緒!
美緒 ……(昏睡と覚醒の間を往つたり来たりしてゐるらしい)
五郎 (脈を見てゐた手で美緒の頬を叩くやうな事をしながら、緊張しきつた顔で、わめく様な声を出す)美緒つ! 馬鹿野郎! 眠つちやいかん! 眠るなと言つたら! 反歌! いゝかつ! 十五《もち》夜|降《くだ》ち清き月夜《つくよ》に吾妹子に、見せむと思《も》ひし宿の橘《たちばな》。同じく。妹《いも》が見て後も鳴かなむほとゝぎす、花橘《はなたちばな》を地《つち》に散らしつ。……俺を見ろ! 俺を見ろ、 畜生! おい! おい! おい俺を見ろ! 妹が見て後も鳴かなむ……。
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朗読の声は狂つたやうな大声になつてゐる。
戸外は少し傾いた初秋の午後の陽射しが、カツと明るい。
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底本:「三好十郎の仕事 第二巻」學藝書林
1968(昭和43)年8月10日第1刷発行
初出:「文学界」
1940(昭和15)年6、7月号
※表題は底本では、「浮標《ブイ》」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※アキの有無、字下げ、三点リーダーの長さ、仮名・漢字表記のばらつきは、底本どおりにしました。
※「〔〕」内は、底本編集部による注記です。
入力:伊藤時也
校正:及
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