チヤラだから、時々はあなたホントの絵を描いてよ。
五郎 又はじめた。……子供の絵はホントの絵ぢやないのか? ……そりや、描けば金になるから俺あ描いてゐる。それでいゝぢや無いか。……しかしそれだけぢや無い、美しい絵を描いてそれが絵本になれば、日本中の子供がそれを見るよ。……金儲けだからヤツツケ仕事をする気は無いんだ。又、そんな事は俺にはとても出来ない事はお前も知つてゐる筈だ。俺あこれでも本気で描いてゐるんだ。
美緒 ……知つてるわ。だけど……だから、ホンの一月に一枚でもいゝから、油で制作をして欲しいの。
五郎 ……純粋絵画の価値に就て、俺あ疑ひを持ちはじめてゐるから駄目だね。美とは全体なんだい? ……描けば描けるよ。しかしそいつを、誰が何処で見るんだい? 詰らんよ。そんな時代ぢや無い。
美緒 ……うん……だけど、私が見たいのよ。あなたがコツテリと油で描いた風景かなんかを、私が見たいの。それならいゝでしよ。
五郎 お前が見たいんなら描く。その内に描いてやらあ。……だが、お前の言つてゐるのは嘘だ。俺に制作をさせたいために、わざとそんな事を言つてゐるんだ。
美緒 ……だつて、あなたは、天才だと言はれた画描きよ。……私もさう思つてゐるわ。
五郎 それ見ろ、それがお前の本音だ。……お前なんかに何がわかるもんか、天才なんてナンセンスだよ。世の中に天才なんて有るもんぢや無い。ありや形容詞だ。
美緒 ぢや、唯の才能と言つてもいゝわ。それをあなたは殺さうとしてゐるのよ……。
五郎 へん、そのセリフの一番最後にお前が言はうとして言はなかつたセリフを俺が言つてやらうか? 「私のために」と言ふんだ。へつ、しよつてらあ。お前なんぞのために、誰がどんなものでも殺すものか。亭主に犠牲を払はせてゐると思ひ、それを済まない済まないと思つてゐる事で以て、二重に良い気持でゐる病身の妻。……そんな気の良い役を自分だけで取らうというのはチツと虫が良過ぎるよ。もう今では、天才や才能なんかは死なゝきやいかんのだ。しかしそれは細君の病気の中やなんかで死ぬんぢやなくつて、今の時代の中でだ。そんな物はみんなぶち殺して、人民の中に叩き込まなきやならんのだ。叩き込んで、もう一度鋳直さなきやならんのだ。……今、日本は戦争をしてゐるんだぜ。
美緒 ……この近くだけでも、もう二人出征した人があるわね?……すまないと思ふ……それに何だか考へるたんびに、怖くなつて、私、身内が顫へ出して来るわ。
五郎 ……お前も戦争をしてゐるんだ。お前もぢやなくつて、お前が戦争してゐるんだ。他人の事ぢやない。顫へ出すなんかと言つて、自分だけは病人だから責任は負はないでいゝなどと思つてゐると大変な量見違ひだぞ。まして、食物を噛むのがいやだなんて、怪しからんよ。クソになつたつて石になつたつてなんだい。……さ、食べよう。(再び食物をスプーンで養つてやりはじめる)
美緒 ……(黙つて噛みながら涙ぐんでゐる)
五郎 (それを、わざと無視して)……そら、ホーレン草。……あゝ、この土曜に目黒診療所の比企さんがやつて来るさうだよ。今朝手紙が来た。……日曜には赤井達が来るし、利男君も来るだらうし、賑やかになる。
美緒 ……比企先生?……さう?
五郎 なんでそんな変な顔をするんだ? いやか?
美緒 うゝん。だけど……あんた手紙を出したの?
五郎 うん、こないだ。あんまり御無沙汰してゐたからね。
美緒 ……私の身体、又、そんなに悪くなつた?
五郎 なんだい? なにを言つてゐるんだ! 俺が来てくれと言つてやつたわけぢや無いぜ。向うで避暑に来たいと言ふんだ。
美緒 だつてあなた、今頃になつて、避暑なんて、変ぢやないの?
五郎 邪推するのもいゝ加減にしないか。診療所が忙しくつて、みんなのキマリの休暇が今迄遅れてゐたのが、やつと土曜から三四日取れたから見舞ひかたがた行きたいと言ふんだよ。お前の病気に医者を呼ぶ必要が起きたら、そんな卑怯な真似を俺がするか。現に比企さんの妹も一緒に泳ぎに行くからと言つて来てゐる。
美緒 ……京子さんは、声楽の方はまだなすつてゐるのかしら?
五郎 さうらしいね。
美緒 ……そいで、夜具はどうするの? 二組なんて内には無くつてよ。
五郎 いや、此処は駄目だよ。そこの臨海亭にでも泊つてもらうさ。先方でもそんな積りらしい。
美緒 ぢや前もつて臨海亭に頼んで置かないと……。
五郎 なに、もう客は無いから大丈夫だよ。……でも、とにかく後で、さう言つとこう。
美緒 (噛みながら)……御飯すんだら、又、万葉集読んでね。
五郎 でもお前、俺の解釈を笑ふぢやないか。
美緒 ……だつて、をかしいんだもの。……でも万葉の歌と言ふのは、好きだ。……私にだつて解るわ。……歌なんて私には解らないと思つてゐたけど、この頃、わかるやうな気がする
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