て体験的に効果があれば、それでいゝんぢや無いでせうか?
比企 その体験と言ふのが実は非常に危険なんだ。賛成出来ないな。
五郎 牛の生血やスツポンの生血が良いと言つてくれる者が有るんだけど――。
比企 消化器を害して食慾を失はせるだけだらう。迷つちやいかんな。第一君は奥さんをよくしたい一心で、そんな事を言つてゐるけど、実は君はまつたく科学的なんだ。病気に就て科学以外の非合理的な考へ方は結局出来る人間ぢや無いよ君は。その点僕は安心しきつてゐる。迷つちや、いかん。
五郎 ……輸血をもう一度大量にやつて見たら?
比企 今は良くあるまい。悪くするとひどい転機を採る場合がある。
五郎 葡萄糖を打つたら?
比企 よした方がいゝ。腎臓を疲らせるのは全体として不利だ。
五郎 ……(不意に叫ぶ)ぢや、どうしたらいゝんだ! それぢや、全体どうしたらいゝんだ!
比企 ……なんだい、どうしたんだい急に?……だから現状のまゝベストを尽して――。
五郎 ベストを尽すといふ事は、なんにもしてやらないと言ふ事だ。さうでせう? さうなんだ! そんな風に言ふよりも、もう医学は全く無力だと言つたらどうなんです?(憎悪の籠つた顔でニヤリと笑つて)全体、あんたは昔からさうなんだ。口でこそ社会科学がどうのこうのと言つてゐたが、実はそれも例のプロバビリテイだつたんだ。確信も信念もなんにも有りやしない。たゞなんとなく流行に乗つて新興医学者らしい顔をしたかつただけだ!
比企 君は何を言ふ積りだ?(次第に怒り出してゐる)
五郎 (自分が何を言つてゐるか、筋道がシドロモドロになつてしまつて)さうなんだ。だから、今でも、変な金主を見つけて診療所なんかやつて儲けてゐる現在になつても、ソツクリ以前通りに社会医学だとかなんとか、要するに自分の利益に関係の無い範囲のゴタクを並べてゐるんだ! それが全体、なんだ!
比企 ……久我君、君あそれを本気で言つてゐるの?(此の男として一番こたへる所に触られたと見えて、言葉はおだやかだけれど真に怒つてゐる)
五郎 本気?……いや(フツと我れに返つて)いや今のは僕の言ひ過ぎだから、かんべんして下さい。言ひ過ぎだ。(みじめな姿である)
比企 (青い顔でニヤリとして)君が僕の事をそんな風に思つてゐるとは知らなかつたよ。
五郎 いや、僕が悪かつた。いろんな事で頭がこんぐらかつて、悪くしてゐるんだ。かんべんして下さい。失言だ。あやまる。あんたに今見離されたら美緒は――。どうか許して下さい。(砂の上に坐つて、手を突いて詫びる)
比企 (その姿をジツと見おろして、怒りのためにブルブル顫へながら、しかし口調は静かに)……いやイデオローグとしては、僕は君の言ふ通りの人間かもわからないんだ。いゝよ。しかし科学者として良心だけは持つてゐるつもりだ。君は、先刻本当の事を知らせて呉れと言つたから僕も正直に言つちまふ。もつとも、これは科学者としての僕だけの観察だから、それを信じようと信じまいと君の自由だ。つまりプロバブルな事だと言ふに過ぎないからね。それから、これは僕が君に対して悪意を持つてゐる為でもない。君の奥さんに就て僕が診断を下すのも多分これが最後だらうと思ふから、医者としての責任からも、後で君にうらまれないためにも、此の際ハツキリ言つとく必要があるからだ。……君の奥さんはね、僕の所に一番最初に連れて来られた時に既にかなり悪化してゐたんだ。僕は黙つてゐたが、実は半歳もてば良い方だと思つてゐた。……僕は正直な事を言つてゐるんだよ。……それを、かうして既に二年ちかく、とにかく、なにして来たのは、やつぱり君の手当の仕方がよかつたからだらうと思ふ。それは大した事だ。医者として僕はそれを認めるよ。……でも、もう多分、駄目だ。医学的には、もう殆んど……と言ふよりも九十九パーセント、いや百パーセント見込みは無い。患者は平静なやうだが、もう多分半月、永くて廿日間……、もし腸に出血があればこの四五日中にも或ひは――。何か聞いて置きたい事があれば今の中に聞いとくんだな。会はせなければならん人にも出来るだけ早く――。……僕の言ふ事は、これだけだ。
五郎 ……(坐つたまゝ石にでもなつた様に動かない)
比企 今後も僕に出来る事があつたら、医者として、いくらでも助力するから、そう言つてくれたまへ。……ぢや僕は寒いからチヨツト宿に帰るよ。なんなら君も後でやつて来ないか。……(スタスタと歩み去つて行く)
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後では五郎が石の様に坐つたまゝ。
永い間。……
白い街道を上手からフラリフラリと歩いて来る変な男がある。汚れた和服を着たボンヤリした四十過ぎの男で、酒に酔つてゐるらしいが、陽気な所は全然なくて、寝呆けたやうな白い顔をしてゐる。片手に二合びんを下げてゐる。それが何処へ向つて行くと
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