だらう。つまり科学的にはベストを尽して来てゐるんだ。それは僕が保証してあげてよろしい。治るものなら、これで治るんだよ。……駄目なものなら、もうこれ仕方がないんだな。
五郎 (ビクツと、小さく飛上るやうな動作)……。あなたには、そんな事が言へるんだ!
比企 なんだよ?……そりや、僕は医者だから、科学の命ずる事を言つてゐるまでなんだ。……そんな風に言ふのは君らしくないよ。
五郎 科学が命ずると言つたつて、では科学が本当はどんな事を命じてゐるんです? 全体、では、あなたは科学を信じてゐるのか。
比企 ハハ、そんな事聞いてどうするの? そりや、信じてゐるとも言へるし、信じてゐないとも言へるよ。でも科学のプロバビリテイだけは――と言ふよりも科学と言ふものが実はプロバビリテイを綜括したものだが、――そいつだけは信じてゐるよ。でなきや医者なんかやつて行けるもんぢや無いからね。だから、変な話だけど、医者と言ふものは病気を治したり出来るもんぢやないと思つてゐる。要するにそのプロバビリテイに基いて患者に対して忠告をしてあげる役目だけだな。
五郎 ぢや、そのプロバビリテイを信じられなくなつた者はどうすればいゝんです? 又はそのプロバビリテイから除外されたり、はみ出しちまつた人間はどうするんです?
比企 もういゝぢやないか、……どうすればいゝと言つたつて、そんな、そりや何もプロバビリテイのせゐぢや無いだらう。
五郎 さうでせうか? 僕は時々、そんなプロバビリテイが段々積み重ねられて行けば行くほど、そのプロパビリテイのために取り殺されて行く病人が益々多くなつて行つてるんぢやないかと言つた様な気がするんだ。外科だけは少し違ふ。僕の言つてるのは内科の事です。
比企 それも程度問題さ。内科だつて或る程度まで実証的なもんだからね。医学が発達するにつれて病人が多くなるとか言ふのは偏見だ。仮りに一部分にそんな現象があつても、現在は科学の発達の点ではまだ過渡期だから、そりや仕方が無いだらう。
五郎 いつになつたら、過渡期でなくなるんです?
比企 いつまで経つても或る意味では過渡期さ。
五郎 過渡期だからですまして居れる者は、それでいゝんだ。それでは、どうしても、どうしても諦めきれない者――つまり自分です――そいつは、いつたいどうすればいゝんです? 何に頼ればいゝんです?
比企 そりや僕も知らん。わからん。
五郎 わからん?
比企 君は、もしかすると医学と言ふものが、人間の生命の全部に就て責任が有るやうに誤解してゐるんぢやないかな。
五郎 さうかも知れない。しかし、そんな誤解を植ゑ附けて来たのも医学です。いや僕あ僕一個の事を言つてるんぢやない。一般社会の事を言つてゐるんだ。社会にさう信じ込ませたのは医学だ。
比企 違ふね。社会――つまり人間の性質にそんな妄信性が本来有るんだ。科学に責任はない。
五郎 あなたは抽象された科学を考へてゐる。ところが、そんな抽象された科学なんか世の中に存在しない。僕が医学と言つてゐるのは医者と言ひ換へてもいゝんだ。
比企 医者は、そりや、自分が必ず病気は治せる様な顔をしてゐるよ。営業だからな。信用を作りあげて置く必要がある。……しかし、もうこんな話は止さう。なんだか馬鹿に寒くなつて来た。君の言つてゐるのは、哲学か宗教の範囲だよ。僕あ科学者だからな。よく解らんのだ。……(怒つたやうに自分を睨みつゞけている相手の眼を避けて)全体君は、人間と言ふものは結局一人残らず必ず死ぬ事に決つてるのを忘れてゐるんぢやあるまいね?
五郎 ……?(と、はじめ何と言はれたか理解出来なかつたらしく相手を見詰めてゐたが、突然にその意味を掴むと喉の奥でグツ! と変な音をさせ、真青になつてキヨトキヨト四辺を見廻した末に、眼を据ゑて空を見詰めて低く唸る)……うゝ!
比企 もう止さう、……どうしたんだい?
五郎 (片手で両眼を掻きむしるやうに撫でる)……いや。うむ……比企さん、……僕あ、美緒を助けたいんだ。美緒ですよ! 美緒ですよ! 美緒だけは今死なしたく無いんだ!
比企 ……。
五郎 僕の言ふ事が気に障つたら、かんべんして下さい。あやまる。あいつに死なれたら、僕あ全体どうすればいゝんだ。僕あ、僕あ此の際、少しでも効果の有る方法なら、どんなものでも、たとへどんなものでもやつて見せる。なんでもいゝ、彼奴を此の世につなぎとめて置くためになら、僕あどんな事でもする! たとへ、どんな事でも! どんなインチキでも恥知らずな事でも。……漢法をすゝめられてゐるんだけど、どうなんでせう?
比企 さう、漢法も場合に依つて良いけど、結局システムこそ違へ基礎的には同じものなんだからな。それに漢法には民間の素人療法や迷信と言つた風のものが大部入りこんでゐるからねえ。
五郎 ……素人療法だつて迷信だつ
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