になる。それを又引掴んで、散々骨を折つて、ねぢ込むやうにして空鑵に入れる)
小母 ……(飛び退いて、息を呑んで五郎の悪戦苦闘を見守つてゐたが、うまく鑵にとぢ込められたので稍々ホツとして、額の油汗を拭いてゐる)へえ!
五郎 ……(鑵のフタを押へ、歯を喰ひしばつて肩で息をしてゐる)
小母 ……(その五郎を見てゐる内に急に泣き出す。声が出ると病人に聞えさうなので、手で口を押へながら、慟哭)
五郎 ……(便所の手洗場の下に転がつてゐるかなり大きな石を、フタの上に載せて、鑵を縁の下に押入れる。やつとホツとし、小母さんを顧みて、しばらくボンヤリ立つてゐる。小母さんは、まだ泣いてゐる)
美緒 (病室の障子の中から、低い低い声)……どうしたの?……あなた……どうしたの?
五郎 (その声で我れに返つて)おい。……(メチヤメチヤになつたカンバスをポイと湯殿の中に投げ込んで置いて、病室の前へ歩いて行き、そこの藤棚の柱に両手のよごれをこすり附け、手の匂ひをかいだりしながら、縁にあがる。障子を開けて)……なんだ?
美緒 ……どうしたの? ……今の音?
五郎 ……なんでも無い。猫が台所に飛び込んだ。ハハ。
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短い間。
[#ここで字下げ終わり]
美緒 ……。なんか……読んで……。
五郎 そうか、よし。万葉をやろう。俺の解釈を馬鹿にするときかんぞ。あれでいゝんだからな。……(奥の床の間に置いてある万葉集を持つて来て、椅子にかける)えゝと……(と言つて書物の頁を繰りながら、その手の匂ひを時々かいでゐる。なまぐさい蛇の匂ひがこびりついてゐるのである)よしか? (そんな匂ひも、それから一切の感情をも吹き飛ばす様に、開いた所をいきなり朗読し始める。自己流のブツキラ棒な節を附け、声だけは朗々と高い)隠口《こもりく》の泊瀬《はつせ》の国に、さよばひに吾《あ》が来ればたな隠《ぐも》り雪は降り来ぬ、さぐもり雨は降り来ぬ、野《ぬ》つ鳥、雉《きぎす》はとよむ、家つ鳥、鶏《かひ》も鳴く。さ夜は明けこの夜は明けぬ、入りて吾《あ》が寝む、この戸|開《ひら》かせ、……いゝなあ! 入りて吾が寝むこの戸開かせと言ふんだ。……泊瀬と言ふ所に住んでゐる恋人の家へ、夜通し歩いて自分はやつて来た。……今の夜這ひと言ふのとは少し違ふだらうな。つまり恋人の所へ泊りに来る事だ。すると、やつぱり似たやうなもんか。
美緒 …
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