言う資格も無い。将来とても、これは同様であろう。
だから今此処にこの手紙を書くのも、その辺のことを僕が思い返したためでは無い。僕がこの手紙でどんな事を述べても、それは相変らず無益に近いであろう事も、又、なんら事新らしい言説にも成り得ない事も僕は知っている。それを、しかし、敢えてしようとするのは、第一に、君のムキさに対して何も答えないで済して置くのは失敬だと思ったのと、これを機会に、君の提出している問題をめぐっての僕自身の「告白」をしたい慾望を僕が感じたためである。それに君から公けの場面で話しかけられたのだから、それに対し僕も公けに答える責任が多少は有るわけで、従って幾分「やむを得ざるに発した」ものであるわけだ。
いずれにしろ[#「いずれにしろ」は底本では「いづれにしろ」]、既に「言説」では無い。そのつもりで読んでくれ。失礼な言い方だけれど、ただ言説の範囲内だけで「論理的」に君の意見を叩きつぶして見せる事だけならば、僕にとっては言わば一挙手一投足の労で足る。しかし、その様なことをしても、君にとっても僕にとっても、なんの役にも立たぬ。僕が此処で述べたいのは、僕の――そして多分は君をも含めての――「告白」である。
言辞が、たまたま論争的になることがあっても、僕の本意に非ず、君よ許せ。
そこで、事の順序として――と言っても、めんどうくさいから結論から先きに言うが――
君が「答えと問い」の中で述べている意見は、根本的に全く、まちがっている。
3
「今の日本にこそ高い演劇が必要だ」と君は言っている。それは、よい。僕も全くそう信ずる。
今、われわれが真に高い演劇を生み出し得るか得ないか、又は高い演劇を生み出すための鞏固な準備をととのえ得るか得ないかは、少し大げさな言い方かも知れぬが、対英米の文化戦争で勝つか負けるかの境目を作る因子の一つになる。そして是が非でも勝たなくてはならないのだ。この様な事を僕などが今更らしく言うと人々の耳には滑稽に聞こえるかも知れぬが、そのためには、われわれは自己の職能の中で、ひたむきに努力しなければならぬことは自明だ。
君達が劇団苦楽座を結成したのも、結局は君達がそれを感じて立ちあがった姿であると僕は見た。大いに、よしと思った。さすがに丸山定夫であり、徳川夢声であり、高山徳右衛門であり、藤原鶏太であり、八田尚之であると思った
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