たような「芸術的に高く純粋な」仕事を、それ程急速にやる事は出来ない。同時に、あらゆる金儲け主義劇団がすべての良心と誠実と善意を侮辱する事に依って成しとげているような「食えて尚余りある」仕事を、それ程急速にやる事は出来ない。そして、やれないのが本当なのだ。やってはならないのだ。なぜなら、右にあげた二つの行き方は、それぞれ全く不健全であり、そのまま「亡びの道」に通ずる事がらであるからだ。
遅々たる歩みではあっても、絶えず打ち叩いて来る経営的必要(つまり食う必要)の抵抗に向って芸術的意図の本質を守り抜いて行き、同時に、絶えず激発して来る芸術的意慾(つまり純粋な高い芝居をやりたいと言う慾望)の抵抗に向って経営的最低線を確保して行く――この二つを統一的に調和的に実践する努力を忍耐強くやって行くことのみが、真に健全なる「栄えの道」である。そして、そうであってこそ、その芸術的意図は正しく芸術的意図と言う言葉に値いするし、その経営的必要は正しく経営的必要と言う言葉に値いする。
そして、右の様に堅実な芸術的意図も、右の様に堅実な経営的必要も、従って勿論、この二つのものの調和統一に対する忍耐強さも、新築地その他の新劇団には薬にしたくも無かったのである。有るものはただ、或る時は芸術的意図だけを文学青年的、芸術至上主義的、感傷主義的に抱きしめて他を顧みず又別の時は経営的必要だけを商人的、ユダヤ人的、サラリーマン根性的に抱きしめて他を顧みぬと言うテンヤワンヤだけであった。そして、経営的必要のために芸術的意図のホンの少しばかりが差し引かれると、「俺達の芸術運動の針路は曲ってしまった。濁ってしまった」とわめき立てるか(丁度君がしているように)又は芸術的意図のために経営的な困難が少し起きると「これでは食えんから、もう駄目だ」と泣きベソを掻く(丁度君がしているように!)と言う、殆んどヒステリー患者に類する狂躁状態だけが君達を支配したのである。この狂躁状態は君の裡に今尚続いている。そしてそれが君に、此の章の冒頭に引用したような言葉を吐かせ、虚妄の上に虚妄を築かせているのだ。僕が「この言葉はそれ自体としても奇怪に響く」と言ったのは、その事だ。
次に「特にそれを君が言うと尚更奇怪である」と言うのを説明しよう。
説明する必要から、百歩を譲る。で、仮りに君の言う「新築地では食えなかった。食えないものを
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