しては当っていることを僕は認める。そして、その限りに就ても僕は次のように言う。
 その様な、芸術的意図と経営的必要との相剋は、あらゆる劇団の場合に避け得られないばかりで無く、それは起る方がよいし、起らなければならぬ事である。なぜならば、劇団の経営という事は、君が思い、かつ言いたいと思っているように、その劇団の芸術運動の外にあるのでは無くて、その劇団の芸術運動の一部分だからだ。経営無くして芸術運動は無いのである。営利劇団に於て経営が芸術的意図や方針の外に存在しているのは、その劇団が芸術運動では無くて、営利の対象であるからだ。つまり商品だからである。芸術運動としての劇団に於ては経営は外に存在してはならぬし、また概して外に存在し得ないものである。従ってこの二つは、劇団の内部に於て相剋するのが当然であり、相剋した方が、より良いのである。相剋して運動全体を駄目にしてしまうものとしてでは無く、相剋した結果として運動全体をより高くより強力になすものとして、相剋は有った方がよいのである。それでこそ初めて、芸術的意図の中で現実から浮き上ってしまったマヤカシモノの「芸術至上主義」[#「至上主義」」は底本では「至上主義」]や、ただの装飾に過ぎない「良心」などが、経営の必要の中に正当に含まれている観客大衆の健康な嗜好や意志に依って叩き出され、矯正される。同時に、経営的必要の中に含まれている誤った事大主義や大衆追随主義などが、芸術的意図の中に正しく含まれている真の文化・芸術への高き意志に依って叩き出され矯正されるのだ。双方の偏向が互いに矯正される可能性が、そこから生れるのである。勿論、この二つの相剋は一つ一つの実際上の結果としては、時に依って妥協の形で現われる事もあるだろうし、又、征服被征服の形で現われる事もあろう。その様な妥協はしなければならないのだ。その様な征服被征服はあった方がよいのだ。なぜならば、言葉のホントの意味ではその様な妥協は決して妥協と呼ばるべきもので無く、征服被征服と呼ばるべきものでも無いからだ。その事に依って当の劇団が一つの全体として、より健全に仕事がして行ける――即ち芸術面でも経営面でも無理なく一歩々々とより高い方へ近づいて行ける事だからだ。言うまでも無く、その様な歩みは非常に遅々としか進まない。たとえば、旧築地小劇場が「土方伯爵家の財産を食いつぶす」ことに依ってなし得
前へ 次へ
全33ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング