追いたてられはじめたら、たちまちの内に完全に忘れてしまつたのです。Mさんは、九段まで見送りに行くかもしれないと言つていられましたが、ついに顏を見せられませんでした。後で隊あてにもらつた手紙によると、その朝早く、突然に映畫のロケイション撮影の仕事に呼び出されて信州の方に行かれたそうです。

        30[#「30」は縦中横]

 そうです、その事を僕はほとんど完全に忘れてしまつていたのです。
 正直のところ、それは過ぎ去つてしまつたら、實になんでも無い事でした。まるでそれは町角で鼻紙を捨てたと言うぐらいの事だつたのです。
 一つには、たしかに、その當時の空氣のせいもありました。空襲は激しくなつて來そうだし、あちこちの戰況は次ぎ次ぎと不利になつて來るし、指導者や軍部は方針を失つて虚勢を張るだけだし、國民の一人一人はウロウロとただその日その日をどうして切り拔けて行くかに血まなこになつている。誰にしたつて、いつの間にかガサガサした荒い氣持になつている。明日の日が知れないのに、自分の生活や感情の細かいことなどにシンミリと立ちとどまつて居られない。僕もたしかに、そんなふうになつていた。しか
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