れからそのほかの匂いの入れまじつた、實に何とも言えない腐つた動物のようなイヤな匂いがムーッと僕の鼻に來て、僕は吐きました。自分では、それとは知らず、以來兵隊というものがシンから嫌いになつたらしいのです。これはホンの一例で、僕の子供の時からの生活には匂いと言うものが非常に大きな要素になつて附いて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つているのです。
 たとえば、好きな匂いの例ですと、僕は、顏を知らない、死んだ母の匂いを憶えているような氣がします。乳母の胸の匂いは今でもハッキリと思い出せるんです。父の匂いも憶えています。Mさんの匂いも知つています。あなたの匂いも、言い當てることができます。そして好きな人の顏を思い出すのが先きか匂いを思い出すのが先きか知りませんが、とにかく匂いを思い出すと、僕はスナオな氣持になり、純粹な愛情を感じ、その人がなつかしく、シンミリとなるのです。僕をこんなふうになし得るものは匂いだけなんです。實に變な事ですが、そうなんです。
 小さい時は、他の人もみんなそうだと思つていました。しかし段々に自分が特別に匂いに對して敏感なのだという事がわかつて來ました。そのために十六七歳頃、非常に悲觀したことがあります。自分は何か普通の人とは違つた、そのうちに發狂でもする人間ではないだろうかと思つたのです。その後、何かの本で、天才的な性格の中に、おそろしく嗅覺の鋭敏な型があると言う事を讀んで、すこし安心もしましたが、しかし自分が天才だなどとは、まさか思えないので、やつぱり苦しみました。
 とにかく、そうなのです。それで、まだ黒田組に居て、あの女の人ともう一度逢つて見たいとボンヤリと思いはじめた頃から、今言つた通り、あの女の匂いを自分では憶えているような氣がするものですから――しかも、それがどんな匂いだかハッキリとは思い出せないものですから――そこらに居る若い女の匂いが馬鹿に氣になるようになつていました。道ですれちがつただけでも、何か氣になる匂いが感じられると、いけない、いけないと思いながら、その女の後をつけて行つて見たくなるのです。
 僕がお宅でルリさんとぶつつかつたのは、そういう癖が益々ひどくなつて來ていた頃です。ルリさんの匂いが僕の鼻に來ると、僕はボーッとなつてしまつたのです。もちろん、あの女の匂いだなどとは思いませんでした。明らかに違つています。しかしルリさんは非常に特色のある強い匂いを持つているんです。若い女はオシロイや香油などの化粧料の匂いのために、似たような匂いの人がウンと居ますが、ルリさんはあまり化粧はしないと見えて、ハッキリとそれがかげるのです。スモモの花の匂いにいくらか似たようなフックリと重い匂いです。それが僕には、イヤで無い匂いでした。と言うよりも、僕には抵抗することのできない匂いでした。そのためです。ルリさんと連れ立つての歸り途で、ルリさんに對して變なことをしてしまつて、ルリさんから憎まれるような事になつてしまつたのは。
 しかし僕は、ルリさんに、なんにも惡い事はしていません。今こうしてルリさんを思い出していても、なつかしくこそあれ、ホントの意味でルリさんに對する僕自身のした事について、惡い後味は何一つ無いのです。ルリさんが今後幸福になられることを僕は心から祈つています。

 恥かしい事を、思ひ切つて洗いざらい書いてしまいました。すこしホッとしています。これから僕はあなたに對して、やましい氣持無しに手紙が書けます。今日はこれでやめます。
 今、外では雨が降りつづいています。靜かな山の温泉宿が雨に煙つてすべての物音を消しています。
 もう僕の腿のキズもほとんどうずきません。二三日中に僕は此處を出立します。その女を搜しに行くのです。ホントに、おかしな、人から見たらキチガイじみた事だろうと思います。それに搜し出せるか出せないかほとんど望みは有りそうにありません。しかし今の僕には、それをする以外に何もする事が無いのです。いつまで、そうして歩くか、たとえ遂に見つからなくても、僕はバカみたいに、あちこちするでしよう。あなたの書いて下さつたリストの十五人の女の中で六人が東京附近で、三人が地方で、あとの六人が住所不明になつています。住所の書いてあるのが九人、その中の六人が東京や東京附近で、三人が地方になつています。住所の書いてない六人はあなたも御存じないのだろうと思います。それらは、さしあたり搜す當てが無いのですが、しかし、住所のわかつている人たちも、戰爭中から戰後へかけてもとの所に居る人は少いと見なければならないでしよう。中には死んだ人もいるだろうと思います。搜すのは容易なことでは無いでしよう。
 しかし僕は先ずこの九人の人たちをハジから搜して見ます。

        32[#「32」は縦中横]

 馬鹿!
 
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