クンクン鳴らして、
「ああ、染子が又、來てる」
 と言つて、その方へスタスタ歩き出した。
 窪地に降りて來た時から、私はそれに氣がついていた。今どきこんな燒跡などで誰が焚くのか、明らかに薫香の匂いである。ジャコウの勝つた、かなり上等のものだ。ほのかに、なまめかしく匂つて來る。……妙な氣がしながら、私は久保のあとについて行つた。

        12[#「12」は縦中横]

 貴島と久保は防空壕に住んでいたのである。當時、まだ壕舍に住んでいる人がたくさん居て、さまで珍らしい事では無かつたが、不意にそれを知つたのと、香の匂いで私はすこしびつくりしていた。
 一廓の片隅に、二坪ばかりの廣さに土が二尺ばかり盛りあがつており、そのこちら側の端にポカリと穴が開いていて、五六段の階段がきざんである。そこへ下からボッとローソクの光がさしていた。階段へ足をかけると、なまぬるい香の匂いが、さかさに顏を撫でた。
「染子さん、來てんの?」
 久保が聲をかけると、人の氣配がして、
「ああ、お歸んなさい。おそいのねえ」と、くぐもつた若い女の聲がした。
 久保は無造作に私を招じ入れた。内部は一間に一間半ぐらいの廣さで、高さも頭がつかえる程では無い。四壁はコンクリートでたたんであり、床は板の上にウスベリが敷いてある。燒けた邸宅の穴倉だつたものを戰爭中に防空室に改造したものらしい。一方の壁が二段に押入れみたいに凹んでいて、毛布が敷いてあるのを見ると二人はそこで寢るのだろう。室内は割に清潔にしてある。と言うよりも片隅に机がわりに使われているらしい石油箱と、入口に近く二三の炊事道具が置いてあるきりで、他に何一つ無いので、そう見えるのかも知れない。石油箱の上に灯のともつたローソクが立つていて、そのそばに膝を突きながら、その染子という女が私の方を見上げて、
「あら!」と言つて久保の方へ眼をやつた。「貴島さんは?」
「うん?」
 久保はユックリと上衣をぬぎながら、私の方を見てから「貴島は、ほかへ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた」
「そう?……今夜歸つて來る?」
「さあ、どうだか」
 女は明らかにガッカリしたようだつた。二十五六才になつたろう。キンシャらしい大がらの模樣の和服に、頭髮を思い切つたアップにして、パラリとした目鼻立ちに入念に化粧している。全體の樣子がただのしろうとにしてはハデすぎるし
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