、そこに嘘は無い。正直にMさんのために泣いている。それはそうだ。しかし、もしかすると、今こうして幸福な生活の中で、自己に全く滿足している人間が、かつて知つていた故人のために涙を流すことに依つて、彼女自身が良い氣持になつているだけではないだろうか? いくら泣いても彼女は何も失わない、それを彼女自身知つている、そこに惡意は無い。しかし彼女には彼女自身だけしか存在しないのではないのか? 彼女の涙の中にMさんは居ないのではないのか?
自分の思い過ごしかも知れぬ。しかしそんな氣がした。すると、急にそこに居たくなくなつた。
もちろん、この女は自分のあの夜の女では無い。萬一、この女がそうだつたとするならば、僕はごめんだ。僕は引きさがる。……そう思う。いずれにしろ、志村小夜子など、俺には縁の無い存在である。
古賀春子。
志村小夜子に所を聞いて訪ねて行つたが、これは又、アッケ無いほどガラガラと明けつぴろげた暮しをしている人で、年は三十過ぎ。一眼見たばかりで、あの女では無い。
Sの裏で「春子の家」という小料理屋を營業している。表面はそこのマダムだが、實は金主は他にある、つまり雇われマダム。春子の前身のため、藝能關係の客が附いていて、店は相當繁盛している。それよりもビックリしたのは、以前、黒田組に居た頃、組の若い者につれられて、この家には自分は一二度來たことがあるのだ。記憶は無いが、その時春子をも見た筈。その時は、たしか組の若い者が「禁制品であろうと何であろうと、どんな料理でも酒でも、スシなんかも食わせる家が有るから案内しようじやありませんか」と言つて連れて行き、言葉の通り、當時としては珍らしい物を飮み食いさせてくれた。現在でも、そういう點は同じらしい。
訪ねて行くと、夕方だつたが、もう店は開けていて、客はまだ立てこんでいず、Mさんの名を言うと、たちまち、なつかしそうな顏で、まあまあこちらでと言つて、隅の小さなテーブルの所へ連れて行き、他の客にするのと同じようにビールを出してくれる。ガラガラとした調子だが、見るからに人が良さそうで、美しいと言うよりも色つぽい。氣取らず、オシャベリで、こちらが默つていても、あれこれと氣輕に話してくれる。はじめはMさんの思い出話が主だつたが、次ぎ次ぎと話題が流れて、この間に身の上話なども混る。それによると、夫も子供も有るようで、ただ夫が病身のた
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