僕の僅かな生甲斐のように感じられます。それなら、それが如何にコッケイなミジメな夢みたいな事であつても、それをしてみるほかに無いと思います。
そしてヒョイと氣が附いたのは――いえ、これは現在のことではありません、僕が黒田組に働きながら、そこの生活がつまらなくなり、あの女に逢つて見たらと思い附いて、半ば無意織のうちにその事をあれやこれやと考えていた時分のことです――あの女の匂いの事です。女の身體の匂い――體臭と言いますか、肌の匂いと言いますか、それを僕は憶えているのです。いえ、匂いなんですから、結局は記憶とは言えないかも知れません。ただ、憶えているような氣がするのです。つまり、あの匂いに今度ぶつつかつたら、キット、ああこの人だという事がわかりそうな氣が僕には、するのです。人に言うと笑われるかもしれませんが、その點では僕には確信みたいなものが有るのです。
小さい時から僕は嗅覺がおそろしく鋭敏なのです。それは實際コッケイな位で、一度かいだ匂いは、めつたな事では忘れません。その時にはハッキリ意識しないでも、それと同じ匂いをかぐと、たちまち思い出します。ことに、ふだんかぎ馴れた匂いと違つた匂いだと、忘れようと思つても忘れません。その點、僕の感覺――いやもつと體質と言つたようなもの――には多少異状なものがあるような氣がします。それは小さい時から往々にして、僕を不幸にしました。と言うのは匂いに對してむやみと敏感で氣になるものですから、食べ物や人間や場所、その他どんな物にもどんな所にも匂いの無いものは無いため、それにつれて好き嫌いが實に極端にひどいのです。僕が幸福になるためには、僕の好きな匂いのそばに僕は居なければならないし、又逆に、僕の好きな物や人は、いつの間にか、その匂いを僕は好きになつています。しかし、そんな場合は割にすくなくて、世の中には僕の嫌いなイヤな匂いの方が多いものですから、僕は不幸な事が多いのです。
僕が軍隊というものを嫌いになり、そして軍人の子に生れ、軍人の子として育てられながら、軍人になるのを本能的に嫌つて父親を悲しませるようになつたのも、最初のキッカケは實は匂いのためなんです。極く小さい時に、乳母に手を引かれて、父の勤めていた兵營の軍旗祭か何かを見物に連れて行かれた時、その兵營の廣場で向うからやつて來た兵隊の行列とすれちがつた時に、汗の匂いと皮の匂いと、そ
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