、お香代!
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(立つて居れなくて地面に坐つてしまひ、号泣する)
(先程から三人の騒ぎにドギモを抜かれてハラハラしながら見守つてゐた轟と津村と伝七が、留吉の此の様子で、気でも狂つたのかと、石の様になつてゐる。ばかりでなく、お雪も利助も留吉の様子にギヨツとする)
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雪 ……(立つて来つゝ)どうしただよ、兄さん――? どうしたの、しつかりしてよ! (兄の肩に手をかける)
留吉 ……(顔をあげて、妹を見る。はじめ少しキヨロキヨロして、次に妹の顔を穴のあく程マヂマヂと、何か非常に不思議な物を発見した様に見詰めてゐる)
雪 どうしただよ、兄さん? お香代さんと言ふのは誰?
留吉 う? ……うん。
津村 (やつと元気を取戻して)留吉君、そいでだな、斉藤の方の話は――。
利助 (お雪のコメカミのキズから血のにじんでゐるのを見付けて)あゝ、お雪、いけねえ!
雪 あんだよ? (コメカミにさはる)
利助 痛くは無えのか? どれどれ!
雪 あゝにチヨツとすりむいた。
留吉 (その妹夫婦のする事を見守つてゐたが)……利助、……俺あ悪かつた。
利助 ……? あに、いいよ兄さん。俺あ酔うと、かうだ。始終ムシヤクシヤしてゐるもんだから、酒がこじれるんだ。俺が悪い。もう此奴を殴るなあ、止めだ。
留吉 なに、殴る位、かまわん。しかし、なあ、離縁だけはしてくれるな。俺が頼む。どうか可愛がつてやつてくれ。
利助 心配かけて、済まねえ! (男泣きに泣く)兄さん、実を言やあ、俺あ、お雪が居てくれなからうもんなら、もうとうに負けちやつて、首でも縊つてゐる男だ。
留吉 ……『うまく人間の皮をかぶつた』と言つてたな、……ケダモノか。……そうかも知れねえ。人の心持もなんにも解らなかつた。
雪 兄さん、お香代さんと言ふのは、どうした人?
留吉 なあに……。俺あな、お雪、百姓するなあ、もうやめた。お前達夫婦は、どんな事があつても別々にならねえで頑張つてやれ。先刻なあ、此の児が其処の親父やおふくろの墓の上で泣いてゐるのを見たら安心――と言ふか、なんか、そいでいいやうな気がした。墓なんかどうでもいいよ。人間、お互ひに苦しからうと、みじめだらうと、かうと思つた土地で松杉を生やす事だ。(懐中から二重にも三重にも巻立てた胴巻を出して)これお前にやる。
雪 ……あんだよ?
留吉 やるから
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