望は捨てきれないままでの、臆病者の抵抗論です。
 つぎに私の肉体の弱さのことを言っておかなければなりません。肉体の弱さといっても私の病弱のことではありません。精神が一度こうと決定したことをも、いざその場にのぞんで現実から本能的・衝動的に点火されれば、往々にして肉体はそれをうらぎって行動する。その肉体の弱さのことです。
 理智が論理的に考えつめて生み出したテーゼをも、じっさいの現場にさらしたばあいに往々にして感情はそれをうらぎると言ってもよい。肉体と感情は現実の実感にほだされたり追いつめられたりして、ひじょうにしばしば平常の冷静な思惟に矛盾したりそれを越えたりしてしまう。その「肉体のもろさ」のことです。
 たいがいの人びとがそれをもっています。とくに私のように本能的感性的な人間、しかも自分が動物のように本能的感性的であることを、ある意味でたいへん幸福な、よいことだと是認している私のような人間の肉体は、はなはだもろいのです。人と喧嘩するのがこんなに嫌いで臆病なくせに、自分および自分の親しいものが他から不当に侮辱される現場にのぞむと、ついカッとして喧嘩をすることがあるのです。
 さきの戦争中にしても、そうでした。戦前も戦争中も私の思想は戦争に賛成せず、私の理性は日本の敗北を見とおしていたのに、自分の目の前で無数の同胞が殺されていくのを見ているうちに、私の目はくらみ、負けてはたまらぬと思い、敵をにくいと思い、そして気がついたときには、片隅のところでではあるが、日本戦力の増強のためのボタンの一つを握って立っていたのです。
 これは、私の恥です。私が私自身にくわえた恥です。私の本能や感性が、私の精神と理性にあたえた侮辱です。肉体が精神をうらぎり侮辱することができるほど、私の肉体と精神は分裂していたということです。これは、まさに人間の恥辱のなかの最大の恥辱でありましょう。こんな恥辱をふたたびくりかえさぬように、私はしなければならない。私はそうするつもりです。たぶん、そうできるだろうと思います。
 しかしながら、いくらそのような決意をもち、考えぬき考えぬいておいても、またしても肉体はうらぎるかもわからない。肉体というものが、本来そういうものかもわからないのだ。また、もしかすると、肉体と理性とは近代においては、ある程度まで分裂しているのが自然で合理的なのかもわからない。また、もしかすると歴史における人間の現在の段階は肉体と理知のこのような乖離《かいり》というところにあるのかもわからない。また、もしかすると、これまで人間を存続させ、人間の文化を進歩させてきたものはほかならぬこの肉体と理知の分裂であったかもわからない。もちろん今となっては、この分裂は世界と人間を混乱させ衰弱させるマイナスになっているが、ある時期まではプラスであったかもしれないのである。そのプラスとマイナスの総決算への中間報告的な、またラップ・タイム的な段階が現代かもわからない。また、もしかすると、人間の肉体と理知の現在のような分裂状態はその二つのもののより高い統合という峰《みね》にのぼる直前の、ふかい谷底の風景かもわからない。……いろいろのことが考えられます。
 いずれにしろ現前の事実としては、私は私の肉体を愛するが、完全には信頼しきれないのです。私の精神が、どのように私の肉体の条件や本性を考慮にいれ、それとの調和統合においてゆるぎのないと思われる抵抗論をつくりあげたとしても、将来私の肉体が、私の抵抗論を絶対にうらぎることはないとは、私は言いきれない。自身にたいして、いちまつの不安があります。私はこの不安をかくしてはならない。また、かくしえない。私は英雄ではありません。卓越個人ではない。あらゆる意味でふつうの人間です。
 私の抵抗論はそういう地盤に立っての抵抗論です。

          6

 これだけを君にわかってもらったうえで、私は私のしようと思っている抵抗を具体的に列記します。
 まず、私は何にむかって抵抗するか?
 それには、ひろい意味のものと、せまい意味のものがあります。ひろい意味のものとは、政治・経済・言語・文化・教養・習慣・生活様式などのすべての領域にわたって、日本および日本人が拠《よ》ってもって立っている伝統のなかの良きものを、阻害したり腐敗させたり死滅させたり歪めたり侮辱したり植民地化したりする、いっさいの内外の力にたいして抵抗するということです。せまい意味のものとは、ハッキリと目に見える形で日本人の生命や財産や国土を害し、または奪うところの内外の暴力、そのもっとも大きな現われである軍事力の発動にたいして抵抗するということです。
 この二つは、同時的に統一的になされます。そして抵抗はあらゆる手段をもってなされるが、ただ一つ暴力による手段だけは、かたく除外される。
 ここに私が暴力というのは、現在ふつう使われている「言葉の暴力」とか「富の暴力」とか「多数の暴力」とか、その他形容詞または比喩《ひゆ》として使われる暴力の意ではない。「一つの有機体へむかって、その有機体の意志にさからって、その有機体の生命や機能を損傷または死滅させる目的または方向へむかって、他からくわえられる破壊力」のことです。
 ひろい意味の抵抗運動のなかには、いうまでもなく、日本人の人間的自己完成の努力と、日本文化の再整理と再確認の事業とがふくまれなければなりません。なぜならば、それ自体としても、現在の世界が要求している平均レヴェルからいっても、われわれ日本人の自己完成の度がひじょうに低いことは、残念ながら認めざるをえない。また、日本文化の中には、中世や封建時代のものが近代のものと入りまじって、未整理のままに投げだされていると同時に、東洋のものと西洋のものとが混乱と不調和のままに放任されているからです。
 私は徹頭徹尾、日本人でありたい。日本の国土をはなれたくない。そのためには、よき日本人にならなければならぬし、よき日本国をつくりあげなくてはならぬ。そしてよき日本人とは、日本人のうちのよい性質や、よい要素をハッキリと確認是認して、これをかたく守ろうとする日本人のことです。そして、日本人のうちのよい性質やよい要素を確認するためには、現在の世界が要求している知識や教養、具体的にいえばヨーロッパやアメリカの知識や教養を――少なくともその根本的な滋養分を――摂取し消化吸収せずしては不可能です。ということは、よき世界人になることなくしてよき日本人にはなれないだろうということです。
 地球上の諸国と諸国民の関係の近接の状態は、すでにそういう段階にまで来ていると見てよいのです。したがって私が日本人でありたければありたいほど、外国人および外国文化にたいして排他的では、これまた徹頭徹尾ありえない。
 私はアメリカ人およびアメリカ文化を歓迎する。またソビエット人およびソビエット文化を歓迎する。その他のどの外国人およびその文化をも歓迎する。どうぞおいでください。よいものを私どもにあたえてください。私どもも、あなたがたによいものをあげましょう。仲よくしましょう。しかし私どもが日本人であること、ここに[#「ここに」はママ]日本国であることを忘れないでください。日本人や日本国を、とくに尊重してくださることはいらない。ふつうに、ふつうの人間としてあつかってくだされば私どもは満足する。ということは、ふつう以下に、自分たちよりもいちだん下等な人間としてあつかわれることに、私どもはがまんしないし、したくないということである。
 ことにアメリカが、日本および日本人を、アメリカ資本主義(それが、かりにどんなによいものであったとしても)の東洋における番犬にしたり、番犬にしようとしたりするいっさいの動きに、私どもは協力することはできない。
 同時にソビエットが、日本人の総意がそれを欲していないことを事実のうえで知っていながら、少数の日本人を激励、またはそれに指令することによって、自国の全体主義(それが仮りにどんなによいものであったとしても)の拡大と伝播《でんぱ》を押しつけようとする動きのすべてに、私は反対せざるをえない。
 したがってまた、アメリカが敗戦後の日本にあたえてくれたさまざまのよいものと暖かい援助にたいしてはどれほど感謝したとしても(事実感謝しているが)、それとは別に、「安保条約」その他どんな口実のもとででも、日本を植民地化しようとしたり、日本人のある者たちを買弁《ばいべん》化しようとしたりパンパン化しようとしたり、日本人の生活や生産や風俗習慣を圧迫したり阻害したり乱したりするならば、私どもはこれを憎み軽蔑しないわけにはいかない。
 それらのことにつき、私は抵抗します。もちろん私が抵抗しなければならぬ外国のそのような動きに協力し手先となる日本人および日本国内勢力にむかっても私は抵抗します。私の抵抗は暴力をともなわないから、はなはだ微力にちがいありません。しかし、まえに書いたような拠りどころと姿勢をもっているために長くつづけることができます。
 せまい意味の、暴力=軍事力にたいする私の抵抗はごく簡単に書けます。
 いままで書いたことによって、私が日本が再軍備されることに反対であることは知ってくださったと思います。しかし問題はそんな段階を飛びこえているのです。保安隊その他の実情は、再軍備はすでにはじまっていると見てよいとも言えると思うのです。解釈上の言葉の遊戯にごまかされても仕方がない。それに、軍備というものは全体どこからはじまるか? 原子爆弾がなければ軍備とはいえないとも言えるが、人が靴をはくところからすでに軍備であるともいえよう。いまごろ再軍備反対をとなえて、となえるだけならば、なんにもしないことにほとんど等《ひと》しいでしょう。それで私は私流に考えぬいて、私のような貧しい弱い臆病な人間にも実行できる具体的な処方箋をつくりあげました。それはこうです。
 私は今後、どこの国のだれが私に武器を持たせてくれても、ていねいにことわって、それを地べたに置くでしょう。武器というのはサーベルから原子兵器にいたるすべての人殺しの道具です。外国人がくれても日本人がくれても、地べたに置いて、使いません。
 そうすると、ばあいによっては私は処罰されるかもわかりません。それは怖いし、イヤです。なるべくそういうことにならないように相手にたのみます。しかしどうしても処罰されるのだったら、それを受けます。たぶん、即座に殺されるということはないだろうと思います。いずれにしろ怖いが、しかし武器を取って人を殺すほど怖くはないでしょうから。
 暴力=軍事力にたいする私の抵抗は、じつはたったこれだけのことです。もちろん、このことからいろいろ派生してくる問題はありますが、それらみな副次的なことで、右の一つのことさえ私が実行できるならば、その他のことは、そのときどきになんとか処理できるだろうと思います。
 残る問題は、まえに書いた肉体と感情の弱さのことです。自分の目の前で、なんの罪もない同胞がバタバタ殺されるのを見せられても、最後まで、私は武器を取らないでいられるだろうかという問題です。
 これは、目下のところ、いくら考えてもハッキリわかりません。なんとも言えない。もしどこかの国の軍隊が侵略の意図でもって日本の国土をふみにじり、日本人を虐殺しはじめ、そしてその事実が疑いようのない形でわれわれに確認され、私の怒りが完全に私をもえあがらせたばあいは、もしかすると、私はナイフを取ってでも眼前の敵を刺し殺すかもわからないし、またもしかすると、私とおなじ考えをもった人たちとともに、パルチザン部隊をつくって敵と戦うにいたるかもわからない。
 もし万一そうなったばあいは、私は悲しみ、あきらめるでしょう。私という人間の成長の程度が、現在のところ残念ながらその程度で、また私と同じような人びとも私と同様まだ不完全で弱いと思い、その不完全と弱さのゆえをもって戦わざるをえない運命を、人間全体のために悲しみ、あきらめます。ほかに仕方がないから、あきらめるのです。そうすれば、その戦う
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