尊重してくださることはいらない。ふつうに、ふつうの人間としてあつかってくだされば私どもは満足する。ということは、ふつう以下に、自分たちよりもいちだん下等な人間としてあつかわれることに、私どもはがまんしないし、したくないということである。
ことにアメリカが、日本および日本人を、アメリカ資本主義(それが、かりにどんなによいものであったとしても)の東洋における番犬にしたり、番犬にしようとしたりするいっさいの動きに、私どもは協力することはできない。
同時にソビエットが、日本人の総意がそれを欲していないことを事実のうえで知っていながら、少数の日本人を激励、またはそれに指令することによって、自国の全体主義(それが仮りにどんなによいものであったとしても)の拡大と伝播《でんぱ》を押しつけようとする動きのすべてに、私は反対せざるをえない。
したがってまた、アメリカが敗戦後の日本にあたえてくれたさまざまのよいものと暖かい援助にたいしてはどれほど感謝したとしても(事実感謝しているが)、それとは別に、「安保条約」その他どんな口実のもとででも、日本を植民地化しようとしたり、日本人のある者たちを買弁《ばいべん》化しようとしたりパンパン化しようとしたり、日本人の生活や生産や風俗習慣を圧迫したり阻害したり乱したりするならば、私どもはこれを憎み軽蔑しないわけにはいかない。
それらのことにつき、私は抵抗します。もちろん私が抵抗しなければならぬ外国のそのような動きに協力し手先となる日本人および日本国内勢力にむかっても私は抵抗します。私の抵抗は暴力をともなわないから、はなはだ微力にちがいありません。しかし、まえに書いたような拠りどころと姿勢をもっているために長くつづけることができます。
せまい意味の、暴力=軍事力にたいする私の抵抗はごく簡単に書けます。
いままで書いたことによって、私が日本が再軍備されることに反対であることは知ってくださったと思います。しかし問題はそんな段階を飛びこえているのです。保安隊その他の実情は、再軍備はすでにはじまっていると見てよいとも言えると思うのです。解釈上の言葉の遊戯にごまかされても仕方がない。それに、軍備というものは全体どこからはじまるか? 原子爆弾がなければ軍備とはいえないとも言えるが、人が靴をはくところからすでに軍備であるともいえよう。いまごろ再軍備反対をと
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