動いていないと見るのも距離一つです。幕府の醜吏には醜吏としての距離がある。薩賊会奸には薩賊会奸としての距離がある。
今井 そうです! ところで路はわかりましたか?
加多 わかった。この線がこの路だ。正確なので驚いている。
今井 地図を引いたというその老人はいまどこにいられるんですか?
加多 ああ君はまだだったか。目下、兵藤氏と共に長州の真木和泉のところへ使いに行っている。自ら称して一介の遊侠の徒に過ぎずとしているが胆略ともに実に底の知れない、えらい男です。この地図の様子では洋学の智識などもかなり深いらしい。おっつけ戻る頃だ。
今井 (眼を輝かして)戻って来られれば、いよいよ……?
加多 そんなところだろう。昨年幕府発表の攘夷期五月十日も明らかに空手形に終るは定《じょう》だし。薩賊会奸何んするものぞ、田丸先生もそういっていられた。待てば待つだけ奴等は小策を弄するだけの話。それに中川ノ宮以下の長袖と組んでいる。蔵田氏などの考えも最後の目的は公武合体ではあろうが、当面尊攘を目標とする限り、一日待てば一日の後手《ごて》になるのは明白。拙者は自重派には不賛成だな。これでは長州、因州の起つのを待っているのではないか! 筒井順慶が轍じゃ! すでに長州には福原越後が兵を率いて動くと約しているし、久坂義助、桂、佐久間克三郎等あり、因州に八木良蔵、沖剛介、千葉重太郎等が共に立つといえば――。
今井 東西呼応して立つ! 痛快だなあ、ムム! 諸先輩は余り慎重過ぎるなあ! (昂奮してジレジレする)
加多 アハハハ、閑話休題、筑波へ論じに来たのではない。地の理を、踏査に来たのだ。行こう。したが此処まで来ればそれも済んだも同然。少し休んで行くか。いや寒い! 焚火をしよう。(落ちている枯葉枯木を集め、懐中から油紙に巻いたマッチを取出し、火をつける)もう少し集めてください。
今井 (集めにかかりつつ)でも大丈夫ですか?
加多 何が? なあに、構わんコッソリ歩いてもオオッピラに歩いても隠密などというものはどうせ犬のようについて来るのだ。もうすでにそんな時期でない。(焚火が燃え上る)ハハハ唸っているじゃないか。幸いにして未だ存す腰間父祖の剣。
今井 (先程から身内の血が湧き立ってジリジリしていたのだが、加多の今の言葉に煽られて耐えられなくなり、龕燈を投げるように下に置いて、いきなり大刀をスラリと抜いて舞いはじめる。怒鳴るように吟じつつ。加多は一度ニッコリしてから、黙ってそれを見ている)……ウムッ! 天地正大気。粋然鍾神州、エイッ! 秀為富士嶽。巍々聳千秋。注為大瀛水。洋々環八州。発為万朶桜。衆芳難与儔。凝為百錬鉄。鋭利可断※[#「鶩」の「鳥」に代えて「金」、第3水準1−93−30]。蓋臣皆熊罷。武夫尽好仇。神州誰君臨。万古仰天皇。皇風洽六合。オオッ! 明徳……(遠くの山中で人の叫び声らしきもの別々に二ヵ所で起り消える。今井はそれに気づかず尚舞う)
加多 (立ち上って耳を澄して)……今井君、止めたまえ。
今井 は? (加多が何故にとどめるかわからず、余勢でまた刀を振っている)何ですか?
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(チョットした間。――再び以前よりは近いところ――といってもまだそれが人の声であることがヤットわかる位に[#「ヤットわかる位に」は底本では「ヤットかわる位に」]離れているが――で、叫び交す人声二、三カ所で。ギクッとする今井。更に遥かにドウドウドウと急調の太鼓の響。もっと遠くで法螺貝の響きらしい音もしている。……加多、今井と眼と眼を見合わせながらジーッと立っていた後、黙って地図を懐中に入れ、刀の下緒を取り口に咬え、たすきをしはじめる)
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今井 ……(加多を見詰めてこれも身仕度をしながら)では?
加多 ……ウム。
今井 (焚火を踏消しにかかりながら)斬りますか?
加多 仕方があるまいなあ。別れ別れになったら十三塚、小幡へ抜けて柿岡へ出なさい。……いや火は消さんでよい、この闇だ、他からもすでに見えている。……おお静かになったが……此処はもう筑波の社領内だが、狂犬《やまいぬ》め、そんなことも考えておれなくなったと見える。
今井 しかし、それならば太鼓は?
加多 それさ……わからない。あるいは寺社奉行の方へ渡りをつけての上の話かとも思われるがそれ程の手廻しが利くかどうか。斬るにしても慎重に! (ツッと炭焼竈の釜口の凹みに身を寄せて尾根――花道――の方を見詰める)
今井 承知しました! (先刻自分の乗った岩の蔭に身を添えて峠道――自分達の出て来た右袖奥――を睨んで息をひそめる。三度間近に起る人の叫声「逃すなっ!」「ぶった斬ってしまえ!」「やい! やい! やい!」「おーい、そっちだあ!」等。ガサガサガサと木や草を掻き分けて近づく足音。遠くの太鼓の響、
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