兄さんの理論は正しいと思います
だから僕はそれを実行します
兄さんはなぜ実行しないのですか?
兄さんの理論と兄さんの人間が別々になっているからではありませんか?
そして、僕の理論は文字づらからいえば
兄さんから授かったもので、兄さんの理論と同じものですけど
しかし、僕の一身を賭しての実践の基準になるものです
ですから、ホントはそれは全く別なものです」
そのほかいろいろ言って、山田先生も怒り出して
激しい議論がつづきました
その終りごろ、奥さんから命じられていた用を思い出して、私がチョット中坐して
大急ぎで用をすまして、又先生の書斉に戻りかけると、
議論は終ったと見えて徹男さんが
自分の室に戻りかけたのに
私あんまり急いでいたために
廊下の曲り角で、はち合せに身体ごとぶつかった
徹男さんの肩口にこちらの額がドシンと当ったが
先程の議論の続きが頭の中で煮え返っているために
もっとセツない、激しい、深い、気持から、
失礼とも言えず、徹男さんの顔をジッと見上げた
あの人も、昂奮のために、ふだんから青白い顔を真青にして燃えるような眼で
私を睨みつけたまま立っている
そのうちに、不意にチラリとあの人の眼に
それまで、あの人の眼にも、ほかの人の眼にも
ついぞ私の見たことのない不思議な
おそろしいような、それでいて、やさしい、やさしい色が差して
涙がうっすりとにじんで来て
「美沙子さん、僕は――」と低い声で言いかけ
しかし、それだけを言っただけで
あと、しばらく、その眼で私を見ていてから、
私のわきをすり抜けて、向うへ行ってしまった。

今までの私には、まるでナジミのないものが
私の中にグイと押し込んで来た
そして、それっきりでした
私が山田家に居る間に
徹男さんとの間に何かが起きたのは、それ一度きり。
間もなく私はほかへ出てしまい、
後は、たまに山田先生を訪ねて行った時に
あの人に会うだけでした

その前から私は夜の学校の勉強のかたわら
山田先生のお弟子さんの一人が
Gという新劇団の指導者であった関係で
そこのシバイを見ているうちに
シバイが好きになり、それをやりたくなると共に、
あるいは自分の才能を生かすためにも
自分の考えを実現して人のためになる仕事をして行くにも
良い芝居をするのが一番ではないかと思うようになり
先生にも相談すると賛成してくださる
田舎の兄に言ってやると、これも激励してくれるし、
その劇団の人たちもよろこび迎えてくれますので
そこへ入って勉強をはじめました
そのため山田家を出て
劇団の先輩の女優のかたの部屋に住むことになったのです
もうその頃は戦時状態はますます焼けひろがって
もうどうしても東洋だけの問題としては片づかない事がハッキリして来た頃です
軍部や政府の手で
文化方面のすべての事から自由がうばわれ
演劇の世界でも、それまで有った
左翼的な新劇団などが
おさえつけられたり解散さされたりした後で、
私の入ったG新劇団も、本式の公演をやめてしまって
工場や農村や軍の施設への慰問のための
移動公演などを主としていました
後で私にわかった事は
劇団の中には、かつての左翼くずれの人たちも、たくさん居て、
未だにそれらしい事を言ったりしたりしていながら
戦力増強のシバイも真剣に腹からやっています
その関係が私にはよくのみこめませんでしたけれど、
とにかく指導者の人は山田先生のお弟子さんであり
ケイコのはじめには宮城をよう拝し
公演開幕の前には「国民の誓い」を唱和する式で
それも腹からまじめにやっている人が多いのです
私はそれを信じ
よろこび勇んで先頭に立って働いた
それに劇団の中だけには自由で進歩的な空気があった
そして何よりもそこには
まだ芸術らしいものが有ったのです。
戦力増強のためと言うことと
自由と進歩的であるとことと[#「あるとことと」はママ]芸術と言うものとが
どんなふうに組み合わされているか
ぜんたい、組み合わせる事の出来るものかどうか
考えて見ようとする人も居なければ
考えている暇もありません
山田先生から吹き込まれた理窟を
実際に実践するのは此処だとばかり
夢中になってシバイをしたのです

シバイというのは妙なものです
役者というのはおかしなものです
というよりも、この人間のカラダというのが
もともと、おかしな、変なものかも知れません
シバイはからだでするものです
はじめは頭がそう思ってカラダを持って行くのですけど
いったんカラダが動き出すと
カラダの法則と言うものが有るかしら?
カラダは一人で動き出す
頭のいうことを聞かなくなる時がある
逆に頭を引きずって行ってしまう時がある
だからカラダは楽しく、恐ろしく、やめられない
だからシバイは楽しく、恐ろしく、やめられない
役者はみんな少しずつ[#「少しずつ」は
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