ではない
ただこの私、この私――緑川美沙という一人の腐れ女が
ただあの男――山田教授という一人の男といっしょには生きておれない
あの男を、かつて尊敬し、信じ、愛した気持の高さと
同じだけの深さで今あの男をケイベツし、憎み、咒っているという事だ
どんなリクツを持って来ても、どんな理由を持って来ても
これはドカンと私のうちに根をおろしてしまって動かない
もう、しかたがない。
ムックリと一週間のベッドから起き出すと
母からもらった短剣を出して見た
戦争中にトギ屋に出して研いである
突けば心臓を貫いて余りがあろう
青く澄んだ刃の奥に私の顔がうつっている
そこから覗いている眼は冷たく
静かに私の方を見ている
たしかに私は昂奮はしていない
自分でも物たりないほど落ちついていた。
お母さん、あなたのくれた懐剣で
私は人を刺すのです許してください
あなたは一番大事なものはミサオだといってこれを私にくれました
その翌日からお前さんを私はつけはじめた
お前さんのしている仕事と、毎日の動静の全部を
キレイに調べあげた。
お前さんは、たくさんの文化団体に関係したり
政治的な運動にもつながっていて
やれ学校だ講演会だで
ほとんど毎日外出する
三日に一度は夜になる
私がねらうのは、その夜だ
踊りの仕事や男たち相手の稼ぎを半分にへらしてしまい
まっ黒なスーツに紺のコートで闇にまぎれて見えぬよう
上等のラバソールの軽い靴を買って、近く寄っても足音のしないよう
お前の家の近くの駅の横の電柱のかげに立っていると
これから出かけて行く時は右の方から
家へ帰って行く時は左手の駅の出口から
駅前の果物屋の電燈の光の中に
お前さんの端正な横顔と青い背広がスッと浮ぶ
四五軒やりすごして私はつける
闇の中をツツツと追うて
一二歩のうしろに迫ってもお前は気がつかぬ
学者らしい、思想家らしい重々しさで、すこし右に傾けられたお前の頭の中には
これから出かけて行った先での講演や討論で
人々を教え説き伏せ言い負かすための方法や、
帰る時には今日一日の自分の指導や講義や交渉が
どんなふうに成功し、効果をあげたかの満足と
妻と子供がどんなに温かい御馳走と、ほほえみを用意しているかの期待などをつめこんで
スッキリと長い脚を気取らぬふうにユックリと気取って運ぶ。
暗い町の四つ角のあたりで
夜におびえて帰りを急ぐ女学生か女事務員
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