バの見送り人と別れを告げている十人あまりの船客の気配と、そのそばを通り過ぎて行く船客やボーイの足音、港内を走るハシケのホイッスルの響きなど。」

「風の向きがスッと変って、『螢の光』が低くなって、ハトバの見送人たちのざわめきが聞える。(距離あり。しかも、これはグイグイ遠ざかって行って、間もなく消える。)
――すべてが浮々と華かな欧州航路の巨船の出港の響。」
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見送人 (遠くで、ガヤガヤと不明瞭に)ウワア……ばんざあーい! ばんざあーい!
船客男一 (叫ぶ)ばんざあーい!
船客女二 ホホ、ホホ、ごらんなさいまし。みんなまるで踊りあがっているわ!
春子 さようならあ、敦子さまあ! さようならあ!
勝介 あはは、もう聞こえはしないよ、春。
春子 敦子さまとばあやが、並んであんなにハンカチ振っていますわ! さようならあ!
船客女三 (フランス人、変な発音で)ばん、ざーい! (フランス語で)Comme c'est beau, Adieu Japon. !
船客男四 (フランス人。フランス語で)〔Oui, ce paysage ressemble a` un immense jardin fleuri, Adieu Yokohama !〕
勝介 これで横浜も、いっとき見おさめだ。だが、私などが、アメリカに渡った時分にくらべると、ここらも立派になった。船などもあの頃の三倍以上の大きさだ。
春子 お父様、私……フランスへなんか行きたくなくなった。よそうかしら。
勝介 はは、今になって馬鹿なことを。あんなにパリに行きたがっていたくせに。
春子 ええ、そりゃパリは見たいけど。
勝介 はは、敏行君が首を長くして待っている。マルセイユまで迎えに出ている筈だ。
春子 でも、敦子さんがいないんじゃつまらない。
勝介 よっぽど気が合うんだねえ、あの人と。
春子 ごらんなさい、敦子さんも泣いていらっしゃるわ。
勝介 それよりも、そら、お前こそ涙を拭きなさい。はは、パリで待っている御亭主よりお友だちが恋しいなんて、いつまでもそういうネンネでは困る。そらそら、その花をよこしなさい。重いだろう。また、長与さんでも島津でも、よくまあこんなに花をくれたもんだ。
春子 農林省の方も下すったのよ。こっちの、これ。
勝介 やれやれ。と、しょと。
春子 あら、敦子さん、こっちへ向いてお一人で歩き出したわ。
勝介 うん。もうよしてくれりゃ、いいにな。しかし良いお嬢さんだ。きれいだし、春なぞより、かしこそうだし。
春子 そうよ、私よりズーッと、おつむが良いの。
勝介 結婚はまだなさらない――?
春子 いえ、もうお相手はきまっているの。来年早早お式ですって。
勝介 すると今度春が戻って来れば、若奥さん同志が出合うわけか。まあまあ、ここで別れるのがお互いの娘時代に別れるわけか。泣けてくるのも無理はない。
春子 お父さまは、直ぐにそうやって人をからかう!
勝介 ははは、だが、敦子さんと言えば、あのイトコの、香川君――と言ったね、去年の夏、信州に一緒に来た――あれは、その後フッツり見えないが、どうしたろう?
春子 香川さんは、……去年の暮れに、ブラジルにお渡りになったんですって。
勝介 ブラジルとね。そう言えば、そんなことも言っていたようだったな。いや、それもいいだろう。若い者はそれぞれに思い切ってやって見ることだ。
春子 (クスクス笑って)信州の La《ら》 grande《ぐらんど》 main《まん》 お元気かしら?
勝介 グランド・マン? なんだ?
春子 大きな手。
勝介 ああ金吾君か。はは、いや、あれは又あれで立派だ、うむ。私がやりかけていたカラ松の苗床の世話いっさいを委せて来たが、あの男ならばチャーンとそいつをやりおうせてくれるだろうと安心できるから妙だ。どう言うのかね? どこと言ってチットも目立たない人間だが――
春子 でもあの人のことを思いだすと、なんだか私、すぐおかしくなるの。
勝介 ふふ。ああいう人間が、しかし、目立たない所でコッコツやっているから、この世の中は成り立っているかもわからんぞ、うむ。お父さんの山林の仕事なぞも、いくら勉強したとしてもパッと人目に立つことなんぞ先ず無い仕事でね、似たような事だね。森や林を人は見るが、それを植えた人間のことは思い出しもしない。おかしなものだ。今度の旅行も、春を敏行君に手渡すためか、その後でスイス寄りの森林地方へ視察に行くためか、わからんようなものでね。誰から頼まれたわけでもないのに御苦労さまなと思うこともある。
春子 だけど、私はお父さまのそういう所が大好き! えらいと思う!
勝介 はは、ただ己が娘の賞讚のみが、黒田勝介の勲章なんだなあ! はは! もっとも、もう己れが娘ではなくて、長与敏行夫人と言うべきかな?
春子 まあ、ひどい!

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「ジャーンと再び銅羅の音が鳴りひびく。」
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ボーイ (小走りに靴音をひびかして寄って来て)ええ、黒田様――でございましたね? 船室はスッカリ片づけをすませましたから、どうぞ。お紅茶は食堂にいたしましょうか、それとも船室の方へお持ちいたしましょうか?
勝介 やあ、ありがとう。そうさね、部屋の方へ貰おうか。
ボーイ 承知いたしました。では――(去る)
春子 あら、ハトバの人たちが、あんなに小さくなった。もう敦子さんも見えないわ。これでずいぶん早く、もう、走ってるのね?
勝介 部屋へ行こうかね。
船客女三 (フランス語)Adieu Japon !
船客男四 (フランス語)〔Laurence, tu pre' fe`res le chocolat, n'est ce pas ? Allons au salon.〕
春子 オールヴォア、横浜! アツコさま!
勝介 はは、さあ、こういう船旅が二十日あまりつづくわけだ。ごらん春、かもめがあんなに追って来る――

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(娘の腕を取ってデッキを歩き出す)

「ウォー、ウォーと吠えるような汽笛が鳴り出して、あたりの物音の全部を消してしまう。」

「その汽笛が鳴りやむのと同時に、それとはおよそそぐわない調子の三味線の爪びきの音がポツンポツンと鳴り出す。……その背後に(隣室)酔ってブツクサ言っている男女の声」
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喜助 「お豊を出せえ! お豊を出せったら!」
おしん 「まあそんな事云わねえで、飲みなんし」
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その他ハッキリは聞えない。
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お豊 (爪びきで低音で歌う米山甚句。三味線も歌もそれほどうまいとは云えない)溶けて、流れて、三島へ、くだる……
壮六 (酔っている。歌をひきとって)富士の白雪……(棒のように歌ってから、あとは、節をつけないでどなる)朝日で溶ける! ウソだい! 溶けるもんけえ! 溶けて流れて三島へ――なんぞくだるもんけえ。そったら事あ大嘘だらず、馬鹿にしさって!
お豊 (三味線をわきに置いて)まあまあ壮六さんよ、そんなに怒るもんじゃありませんよ。いつもあんなに機嫌の良い人が、今晩は、はなっから荒れっぱなしだなし。
壮六 へっへ、これが荒れずにいられるか。歌の文句でもよ、富士のお山に積りに積った雪でさえもだ、朝日が照れば溶けるつうだ! だのによ、だのに、女の心はなぜ溶けねえ、豊ちゃんの前だがよ?
お豊 なぜ溶けねえと言いなしてもさ――だからさ、その春子さんというお嬢さんは金吾さんのそういう気持、まるきり御存知ねえと言うじゃありませんの? 朝日が照りゃこそ雪も溶けようけんど、知らねえもなあ、これ、しょうねえわ。
壮六 しょうねえと言えば、しょうねえわい。はじめっから、あんまり身分が違いすぎら。峯の白雪、麓の氷と言うけんど、まるでどうも、当の金吾の野郎が、まるでへえ、オコリに取っつかれたみてえに、その春子さまにおっ惚れたくせにそいつをおっ惚れたんだとは自分でも気が附かなかった加減が、うん。あれから今日まで四年近く、こんだけ仲の良い俺でさえ、そうとハッキり気が附かなかったんだ。それがさ、おとどし俺もカカもらったし、金吾お前も嫁もらえと、馬流の姉さんともども、いくらすすめてもイヤだつうんで、なぜだてんで、問いつめ攻め立ててるうちに、そいつがわかって来た。可哀そうともいじらしいとも、しまいに俺あ腹あ立って来てなあ。
お豊 (ホロリとして)ほんとにねえ!
壮六 はじめっから、手のとどかねえ高根の花だ。大の男でねえかよ、思いきりよく嫁取りする気になってくれと、附きに附いて言うが、へえ駄目だあ、あんまり言うと怒り出す始末でね。今度も、実あ久しぶりに俺あ、試験場が四五日休みになったんで落窪の奴の所に行って見ると、雪に降りこめられた一軒屋の火じろにもぐり込んだまま春子さまがフランスから送って来たエハガキをマジリマジリと見てけっかるじゃねえか。酒でも飲まさねえとこいつ今に気が狂うと思ったもんで、ひっぺがすようにして、こうして海尻くんだりまで連れて来たわな。
お豊 エハガキをねえ? だって、その春子さんと言う方あ、向うでお婿さんと御一緒でしょうが? それがヌケヌケと金吾さんにヱハガキを送るとは――いえ、御当人は御存知ないのだから仕方は無いけどさ――でも、いかになんでもムゴイわねえ!
壮六 だらず、お豊さん? 俺の言うのも、それだわな! そりゃ、知らない事だと言ってもだ、こんだけの金吾の思いが、ツンともカンともまるっきし通じねえと言うのは、あんまりムゴイぜ。いくら身分ちがいとは言っても、こっちは若い男で、向うは女だらず? え? おなごの心なんて、そったら冷てえもんかよ、豊ちゃんの前だが?
お豊 だけんど、どうしてまた、あんだけしっかりした人が、選りによってそんなお嬢さんなどに思い附いたもんだろうねえ? ほかに良い女が居ないわけじゃ無いだろうに――、
壮六 だからよ、ひとつなんとかしてくれよ、頼まあお豊ちゃん! お前はこうやってツトメこそしているが、内のおかつの学校友だちで、気心はチャンと知れてら。おかつも豊ちゃんなら金吾さんのお嫁さんにゃ打ってつけだと言うしよ。うっちゃって置けば男一匹、気ちげえになっちまわあ。お豊ちゃん、よろしくひとつ頼んます!
お豊 そんな事言いなしたとて、困りますよう! こんな事と言うもんは、そうそう考えた通りになるもんでねえんだから。
壮六 そんな事言わねえで、頼まあ豊ちゃん! 金吾をひとつ、男にしてやってくんなんし! そいで、春子さまなんずの情知らずを見返してやってくれ。こん通りだ!
お豊 あれ、そんなお辞儀をされたりしちゃ、困りやす。お前酔ったな壮六さん?
壮六 酔っちゃいる。だけんど、こいつは酔ったまぎれに言ってるこっちゃねえのだ。うるさく言うようだが――
喜助 (一つ置いた隣りの室から、酔った声)うるせえよっまったく! よそ土地の人間が、海尻へんまで出ばって来て、土地の女をくどかなくともいいだろう?
おしん まあまあ、喜助さん、そんな大きな声出さずとも――(あとはよく聞えぬが、いろいろ言いなだめている)
喜助 大きな声は地声だあ! 誰だと思う――お豊を出せ! お豊を連れて来うっ!
おしん お豊ちゃんは、だから、今お座敷に出ているから――
喜助 お座敷と? へっ、芸者々々と芸者づらあしても、二枚監札のダルマだねえか? 気どるねえ! 第一、農事試験につとめているかなんか知んねえが、馬流へんの小僧っこに、この土地を荒されてたまるけえ!
おしん まあまあ、喜助さんよ、ひとつ飲んで――(と、こちらへ聞えるのをはばかって、しきりとなだめて静まらせる。ガタンと言わせ、ブツクサ言いながら酒を飲むらしい)
壮六 (こちらでは、カッとなったのをおさえて、かえって低い声になって)ふふ、馬流の小僧というのは俺がことか? どうも、さっきから、なん度からめば気がすむんだ?
お豊 まあまあ、かんにんして壮六さん。喜助と言ってね、この町でバクチ打ったりして、うるさい奴だから、がまんしてね。
壮六 うむ。……(酒
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