ら、この、手でも洗わねえじゃ、泥だらけだ。
壮六 開墾百姓が泥だらけの手してるなあ、あたりめえずら! あとでええよ、馬車あ待ってんだ。(急な崖道を勢いをつけてトットと走りくだる)
金吾 だけんど、足元から鳥が立つみてえに……(これもトットットッと走りくだる)
壮六 おっとっとっと! ハハ! ああい、お待どおさまでがした!(二人が崖道を走りおりて道に出るまでの足音。それにマイクが附いて行く。それに向うから馬車の中で春子の歌う「花」の軽快な歌声――第二番の歌詞。馬車の窓べりを手で叩いて拍子をとりながら――入って来て、急速に寄る)
壮六 (それに近づいて行きながら)……黒田先生お待ちどうでございまんた。
勝介 いや、御苦労。どうかな、行ってくれるかね?
壮六 へい、参ります。これがその柳沢の……(と背後を振返る)
勝介 (それに向って)やあ、とんだ事をお頼みして、御迷惑をかけるねえ。
金吾 いえ、あの……おはつにお目にかかります。(キチンとていねいなお辞儀をしてから頭を上げて)――どうぞ――
春子 (川の方向を向いて歌っていたのが、この時フッと歌をやめて、こちらを向きながら)ねえ、お父様、あすこの――
勝介 うん?
金吾 私は柳沢、金――(と言ったトタンに春子の顔を正面に見て、ギクッとしてキンと言ったきり絶句して、あと黙りこんでしまう)
壮六 (馬車にのりながら)さあ、お前も乗りなよ金吾。どうしただい?
勝介 さあさ、こっちがいいだろう。(春子に)なんだな春?
春子 ううん、あの――(と、これはビックリして金吾を見守っている)
壮六 (馭者に大声で)小父さんよ、馬車あ出してくんな!
馭者 (耳が遠い)あん? 出すのか? よしよし、(パチリとムチを鳴らして)こうらよ!
壮六 さ金吾、乗るだよ!
金吾 うん(口の中で言って、ギシギシと馬車に乗り込む。同時にパカパカと馬が歩き出し、ギイコトンと馬車が動き出す)
勝介 すまなかったねえ、お仕事中に引っぱり出して、開墾やっとるそうだな?
金吾 は……(と、これも口の中で)
勝介 骨が折れよう、ここらの山では、えらい砂が混っとる筈だ。
金吾 は……(同様、話のつぎほが無い)
春子 ……お父様、あのね、あすこに見えるあれがタデシナじゃありませんの? あの黄色い、ビョウブみたいな格好の――?
勝介 そうさな、ここからタデシナ山が見えるかな? どうだろう君?
壮六 そうです、たしかあれがタデシナで。だなあ、金吾?
金吾 うむ……(と低い声)
壮六 お前どうにかしたんか?
金吾 いや……
壮六 急に黙りこくっちゃってさ。
勝介 いいんだ、いいんだ。ハハ……(とこれは田舎者のはにかみには馴れていて、金吾をそれだと思っている)
春子 あらら!(と言ってから口を手でふさいで下を向いてクスクス笑い出す)フフ、フフ、フフ!
勝介 なんだ? え? どうしたんだ?
春子 フフ、いえ、あの……フフ、フフ!
勝介 なにがそんなに――?
春子 だって、フフ……(父の耳元へ口を寄せて小さく)あの手! なんてまあ、ほら!あの方の――
勝介 (これもすこし小さくした声で)うん、手をと?……(向う側に坐った金吾の両手に眼をやって、これもびっくりして)おお、なるほど!
春子 ね、お父様、フフ……
勝介 うむ、こらあ大きい!(これも笑い出している)
春子 フフ、まるでミットみたい!
勝介 見事だ、うむ、ハハ!
壮六 はあ? なんでございましょうか?
勝介 いやいや、なんでもない。この、金吾君といったか、柳沢だね? この人の手があんまり、大きいもんだから、これがびっくりしてね、ハハ、ハハ! いやいや、金吾君、かくさないでもよろしい。こういう、直ぐ何でもおかしがる子だ。決して失礼な気持で笑っているんじゃない。そういう立派な手は東京あたりにはもう見られないもんだからね。
壮六 ハハ、そうでやすか。なんしろ、永いこと重いマン鍬なんど使っていやすと、ゴツくなりやして、中でも金吾のはここらでも大将でやす。
勝介 (笑いを引っこめて)いや、そういう手が日本の土地をひらいたり、山に木を植えたりしてくれるのだ、うむ!(金吾に)なにかね、君は将来この奥で高原地の農業やりたいそうだな?
金吾 ……はい、はあ。(口の中で)
勝介 結構だ。まだ若いようだが、いくつになったかね? え?
金吾 あの……(言葉が出ない)
壮六 (見かねて引きとって)二十四でやして。同い年で、私と。
勝介 そうかね、そりゃ……これからだ、すると、これから、諸君の時代だ。明治も今年は四十年だ、わしらみたいな天保生れの老骨はソロソロひっこんで、諸君が引きついでくれなくちゃならん。そうだ、寒い地方の農業、ことに高原地の農業は日本ではまだあまり研究されていない。ただなり行き次第でやられているきりでね。しかし外国ではスカンヂナヴイヤや高い土地ではスイスなどの寒い所でもチャンと農業国としてやっとる。勿論、日本では稲作というものがあるから、これは特別に研究される必要があるだろうが、しかし麦の出来る所で米が出来ないと言う道理は無い、理屈から言えばね、研究ひとつだと思う。ひとつしっかりとやってくれたまえ。私は山林やなんかの方で、チと方面は違うが、この奥でカラマツなどを種から育てて見たいと思っている。そいでまあ、別荘――と言うほどでもないが、ここらに小屋でも建てて毎年やって来てすこし本腰をすえてやりたいと思っとるんで、そうなれば君たちの研究の相談相手ぐらいにはなってあげられようかと思う。
壮六 はあ、どうぞよろしうお頼みいたします。なあ金吾!
金吾 うむ。……
壮六 実は私は試験所の方で稲作の方の勉強を主にやっとりまして、この金吾とは小さい時分から一番仲の良い友達でやすもんで、行く行くは二人で力を合わせて、この奥を開いて見べえと言う約束でがして、はあ。金吾は、もうこいで、落窪のはずれの山を二段歩ばかり買っているんでやして。
勝介 そりゃ、えらい。落窪というと――?
壮六 間もなく、その部落をこの馬車が通りますが、その先生のおいでになる野辺山が原の、ちょうど入口にあたる所でがして。
(窓の外を見て)千曲川が、もう間もなくグッと曲りこんで、この道と離れてしまいやすが、するつうと、道はのぼり一方になりやして、その登りつめた所が落窪で、そこから、野辺山が原でやして。
勝介 そうかね、じゃ都合で、私も金吾君に頼んで、その近くに山を買って小屋を建てるか、どうだね。お世話願えまいか?
壮六 そうしていただけりゃ、私らの方もありがたいわけで。なあ金吾?
金吾 うん……
壮六 (じれて)お前どうしたつうんだ? さっきから眼ば据えて、うんうんと言うきりでよ。
金吾 ふう……(今度は低くうなるような声を出す)
勝介 (笑って)まあいい、まあいい、ハハ。
壮六 (取りなすように)いえ、ふだんはこうじゃ無えんでがして。いえ、ふだんから無口な奴じゃありますが、しかし、こんなどうも。なあ金吾よ!
春子 あら!(これは先程から窓の外ばかり見ていたのが、何かを見つけて叫ぶ)あれ、どうしたんでしょう、お父様あんなに、あわてて駆け出して――
勝介 どうした?
春子 ほら、ほら、赤ちゃんの仔馬! ころぶわよ! ころぶわよ! どうしてあんなに、ピョン、ピョン駆け出すんでしょう?
勝介 うむ、この馬車を見てびっくりしたのかな?
春子 かわいそうに! ほら、けつまずいたわ! 今に転ぶわ!
壮六 (笑いを含んで)いえ、あれで、なかなか転んだりはしません。生まれ落ちると一時間位で直ぐトコトコ駆け出すもんでがして。
春子 だってあんな川原のゴロタ石ですもの下が。転んだら脚が折れてしまうわ! あんな小さい――まだ一年位きゃ経たないんでしょ、生れて?
壮六 はあ、いえ、まだ三月そこそこでやす。
春子 三月? そいじゃまだホンの赤ちゃんじゃありませんの。石の上をあんなに駆けては爪だって痛いわ、キット。なんとかならないかしら? えお父様、なんとかならないかしら?
勝介 しかし、小さくても、とにかく馬だからね。
春子 だって、かわいそうじゃありませんか! あらら! あんなにアワてて! この馬車よ。この馬車にびっくりしたのよ! ね、馬車をとめて! お願い!
壮六 (しょうことなしに、馭者に)おい、小父さんよう、ちょっくら、停めてくんない!
馭者 ああん? もっと早くやるか?
壮六 そうだあねえ! 停めてくれろつうんだ!
馭者 わあ?(とラチがあかない)
春子 かわいそうに! お父様、かわいそうだわ!(泣きそうになっている)
勝介 (困って)だが、どこまで走って行くのかね? 馬車の行く方へ行く方へと行くのだから、どうも、きりが無い。(言っている中に、やっと馬車が停って、あたりが静かになる)
春子 坊や、もう駆けるの、よしなさい! 駆けるの、よしなさい!

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静かになった遠くの川原で微かに馬のいななく声。
[#ここで字下げ終わり]

春子 あらら! あの岩の蔭に馬がいるわ! 親馬かしら?
壮六 ああ、おふくろ馬でがす、あれが。なんだ、母親の所へ駆け出したんだ。ハハ! 小僧め、遠っ走りして遊んでいる所へ、馬車を見てたまげちゃって母親の所へ逃げ帰ったんでやすよ。途中でとまらねえわけだ。
勝介 やれやれ! ハハ、たちまち落ついて、親馬の腹に顔をこすりつけている!
壮六 ああやってまだ乳を呑むんでやす。
春子 まあねえ!(涙ぐんだ声)よかったわ! よかった!(ほとんど泣いている)
勝介 やれやれ!
壮六 ハハ、仔馬なんて、みんな、ああでがす。

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川原の方で親馬がいななく声。
[#ここで字下げ終わり]

金吾 うう!(さぐり上げて来るような妙なのど声を出す)
壮六 なんだ金吾?
金吾 う! う!
壮六 どうしただよ、お前?
金吾 うっ! うう! ぐっ!(これは突きあげて来る、泣き声をおさえつけたための声。しかしそのためにかえってこらえきれずになって、慟哭する)おう! おう!
勝介 どうかしたのかね?
春子 どうしたの?
壮六 こうれ、金吾っ!(金吾の方へ寄って行く)
馭者 ああん? なんだあ?
金吾 うう! おお! うう!(わけのわからない慟哭はつづく)

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激しい、なにか混乱したような音楽。

それがしばらく続いて、フッとしずまって消えると、今度はそれとは全く調子のちがった、静かで華麗な、たとえば鹿鳴館風とでも言えるような音楽。
(東京の青山の黒田家の応接室のマントルピースの上のフランス製のオルゴール時計から流れ出すワルツ曲)
――それがしばらく流れて……
[#ここで字下げ終わり]

春子 (泣き真似)うう! うう! わあ! おおんって泣くのよ。うう、わあって、まるで手離しなの、熊が吠えているようなの! そのね、そのミットみたいな手をこうして、こうやって、ううう! おおうう! おおうう!
敦子 ホホ、大げさね春子さんは、ホホ!
春子 ノン! 大げさじゃないの。オー ノン! これ、マダム・フーリエよ、学院の。オー ノン! まったくの、その通りの、ホントなの。泥だらけの手がね、私の手の五倍ぐらいあるの、敦子さん、ごらんにならないから信じられないでしょうけれど。こんだお父様に証明してもらってもよろしいわ。
敦子 どうして、しかし、そんな大きな男の人が、そんな、仔馬が親馬の所に駆け寄ったのを見たぐらいで、泣くんですの?
春子 それがわからないから、こうしてお話してるんじゃありませんか。お父様は、それはお前の貰い泣きをして泣いたんだろうとおっしゃるけど、そんな筈は無いでしょ? そりゃね、私、この夏の旅行では、はじめっからお母様のことを考えてて、ことに信州のあの辺の景色は北海道によく似てる似てるとお父様からも言われているんで、私、しょっちゅうお母様のことばっかり思っていたの。そこへ、赤ちゃんの仔馬が気が狂ったように飛び出して、どうしたんだろうと思って見ているうちに、お母さん馬の所に駆け寄ってお腹に頭をこす
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