でもマトモに考える日本人は、いったんは、なにかの意味で、ニヒルの底を突かなければ自分の足を置く場所は見つからない。それ以外は皆ゴマカシかアユかツイショウか雷同だ。われわれを追いつめて来ているニヒルは、人とケンカをしてサンザンにたたきなぐられた人間が痛さとつらさに泣き、泣きながら次第にその痛さとつらさを忘れて行くような種類のものであったり、チョットした手術をされた患者が手術室から出されてヤレヤレ痛かったと思うような程度のものでは無いし、あり得ない。
――そのような認識を私は持つ。その認識に立って私は見る。
戦後派の諸君は、それぞれ戦争を通過して来た。脱出はデスペレイトなものであった。ニヒルは彼等のカカトにくっついていた。自然に彼等の最初の一、二作は、それぞれ、ほとんど無意識のうちに、そのデスペレイトとニヒルを具体化して、力ある表現をとり得た。芸術作品としての弱点や歪みを多分に持ちながらも、それぞれ、それらは本質的に良い作品であり得た。つまり、彼等は、自ら意識しないで、「現役」で戦争を通過して来た世代のチャンピオンまたはスポークスマンであった。別の言いかたをすれば、戦争からのデスペレイ
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