かない。小説はズット先きにあり、そしてそれがズット先きに置かれてあるかぎり、可能性であり得る。つまり彼は断片を書いてさえおれば或る種の小説家なのである。重要な点は、そうしてさえおれば、彼は彼の達している理論的高さや完全さを、ゆすぶり立てないで過ごして行けるということだ。これを彼が全部意識的に――ズルく計算した上でやっているとは私には思えない。計算してやっている部分もあるが、大部分は無意識に、または追いつめられた形で、しょうことなしにやっているのではないかと思う。いずれにしろ、そういうことを久しく続けている間に、当然のこととして、ポーズに深く侵されてしまった。そして今となっては、中野がいてその上にポーズがくっついてしまったのか、シンから底までそのポーズに見えるものが中野の正体なのか、ちっとやそっとでは見分けがつかないくらいになってしまった。それが良いことか悪いことか私にはわからない。しかし、それがそうであるかぎり、中野がホントの小説家――小説に自身の全部をかける者――になり得ることはないように思う。そして、そのような小説家や小説は私にすべてキザに見える。小学生が大学生のマネをするのはキザ
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