し、この手の正直さとは、ちがう。この手の正直さは、「町会役員」の正直さだ。作家の正直さは「神」または神に近いものの正直さだ。でなければならぬ。現に『和解』をはじめ、いくつかの作品の中で、そのような正直さの証拠を志賀は示している。志賀が、もし創作の中で特攻隊くずれを描いていたら、たぶん、けっきょくは否定するにしても、このように一方的に手ばなしの否定的壮語に終りはしないであろう。したがって、真に否定さるべきものの根源に徹して否定し得るであろう。われわれは今更、作家志賀直哉から町会役員的正義観を期待するほどナイーヴではない。
 志賀に於て、ちょうど広津をアベコベにした現象が起きている。あれだけのエッセイやドキュメントの書ける広津があんな小説を書いており、あれだけの小説の書ける志賀がこんな感想文を書く。広津がエッセイやドキュメントでしか自身を全的に表現し得ないと同じように、志賀は小説でしか自身を全的には表現し得ないのであろうか。それなら、まだよい。私があやぶむのは、広津の小説が広津のすぐれたエッセイやドキュメントの底をつつきくずしてワヤにしかけているのと同じように、志賀の感想文は志賀のすぐれた
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