その後の新劇人たちは、必要も必然も無いくせに、恐るべき無反省と、賞賛に値するスナオさで物マネシステムを受けつぎ、更にそれを育成してしまった。演劇芸術のプロトタイプが、人間の生きている現実の人生であり、なければならぬ事など深くも考えなかったことは、もちろんである。だから、いつの間にか、たとえば、久保田万太郎の戯曲を演出演技するよりも、セキスピア物を演出演技する方がやさしい――すくなくとも、よりすくない抵抗を感じつつやれるということになって来てしまった。この現象は、ピグミイ族がブーメラングや手槍を怖がりながら、四十八サンチ砲をすこしも怖がらないのに酷似した現象である。いずれにしろ、新劇のハクライ趣味はこれからも衰えることは無いであろうが、だからまた、これをたとえていうならば、これはちょうど胸から下はスッパダカのカナカ族が、人からもらったシルクハットをかぶり蝶ネクタイをむすんで歩いているようなものであろう。たしかに、それは、ただの、完全にスッパダカのカナカよりも「ハイカラ」にちがい無いのである。またそれを「ハイカラ」だと見てよろこんで拍手を送る同族(=新劇のアカ毛ものを見て、西洋人の生活はこ
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