現在の中野のこのような姿は、ただそれを指さして拍手したり、笑ったりして置きさえすればよい姿ではないだろう。中野の姿は、中野だけのものでは無い。そこには、マルクシストたちにとってはもちろんのことであるが、マルクシストでない者にとっても解決しなければならぬところの、深い、そして一般的な問題が示されている。一定のイデオロギイと芸術との相関の問題だ。なぜなら、イデオロギイはマルクシズムだけではない。誰にしろ、キンミツに考える近代人は、何かのイデオロギイから完全に逃げ出すわけには行かないからである。私は私なりに中野の三つの小説から、そんなわけで、いろいろのことを学んだ。

「あ号作戦前後」――阿川弘之(「新潮」十一月号)
 長篇小説の一部だとことわってあるが、これだけでも相当長いものである。戦争中、海軍軍令部特務班(無線通信による暗号盗読の作業をうけもつ)に勤務していた予備学生出身の小畑耕二を中心に、数人の同僚の青年将校の姿を、あの時代のあわただしい動きの中に、そして同じ場所に勤務している女子理事生たちとの淡い恋愛関係を点綴しつつ描いてある。特色は、近代戦における神経中枢とも言わるべき暗号通信操作の中心地帯についての記録風の解説や描写が質量ともに目立つように取りあつかわれている点と、しかしそれがただ単に作品全体の背景または地塗りとなっているだけでなく、作中人物たちの生活や心理と表裏一体のものとして掴まれている点だろう。記録的な構成の中に小説的な要素を持ちこんで、大した不自然さやアンバランスを引き起していないのは、最近現われたこの種の作品中目立ったものであるし、新しい小説分野への展開へのヒントのようなものをも含んでいる。それはこの作者の現実認識の眼がガッシリと重厚なこと、対象への態度とそれの表現にあたっての近代的に明晰なナイヴィテと、そしてセンスの新鮮さとから来ているように思われる。全体および各部の淡々とした非情の筆つきに、時に老成をてらった感じがないでもないが、しかし概してそれさえも材料とよくマッチしている骨の折れた仕事だ。そう思う。思いながら、なにか中途半端に、片づかなくなっている自分に気がつく。どうも小説が自分を強くは打って来ていないのである。これだけの仕事がしてあれば、なにかの形でもっとノッピキならずこちらを打って来るはずだ。しかも取り上げてある材料や時期がそれ自体としてほとんど激烈と言うに近いものなのだ。もっと強く来そうなものだと思う。それが何か白々と――と言えば言い過ぎるが、とにかくピタリとこちらの肌に迫って来ない。どうしてだか、よくわからない。もちろん私のがわの責任もあろうが、作品にもその理由がありそうだ。それを考えて見た。
 第一に、作品に描いてある諸事実が事実としてプロバブルなパスポートを持っているだけにとどまっていて、それらの客観的な実在についてまったく疑いを※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]しはさむ余地が起り得ないほどに煮つまったものでないことである。
「さもありなん」程度であって「そのものズバリ」の実在感にとどいていない。記録物ないし記録的要素の上に立った作品に往々にしてあるところの「二重の虚偽の感じ」はまったくないが、ザッハリッヒな圧力は来ないのである。作の基調になっている、また部分としても最も大きな部分を占めている記録的な要素がザッハリッヒに「物それ自体」として来る以前に「ザッハリッヒな感じを生み出すための小説作法」として来てしまうのである。もちろん、現実の取り扱い方が着実であるために、よくある「小説のハメ手」には感じられない。あるいは作者はただナイーヴに「このようなことがあったから、それをそのまま書いたまで」かも知れないとも思う。そう思われるフシがかなりある。つまりなかば無意識の布置であったかもしれない。しかし、小説作法をまったく考えないほど、また、そのような意味でナイーヴではこの作者はないようだ。その証拠は、すでに最初からの視点(ポイント・オヴ・ヴュウ)の置きかたに示されている。つまり、この作者はホントは終始一貫主人公小畑耕二の視点に立って(小畑を「私」として)書きたく思ったか、または書かなければならぬと思ったかではなかろうか。しかし、それで書くと、書けない部分ができてくる(たとえば、作中「八」その他)。そのために、小畑の視点を中心にした第三人称で書くことに決めたのではなかろうか。これは私の推測だから当らぬかもしれぬが、とにかく作者はこれだけの物を書くのに、どこに視点を置くのが最も有利かということを(――つまりそれが小説作法なのだが)考えたろうと思われるし、事実考えた結果起きた抵抗の痕跡らしいものも数個所で指摘できる。つまり、文字通り日記を書く時のようなナイーヴさで書
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