い考えを持っていながら、実際においてはその時々の波風や感情にほだされ流されやすい人間タイプの把握。それの対照として、彼女の友達の加代子という、どんな波風や男達の間をくぐって来ても、ケロケロと何の手傷も負わない、その時々の生活をまったく無軌道にやっていながら、結局は人生でトクばかりして行く女と、その夫の宮崎という、これも加代子に似たような性格のモデリング。この二組の男女の線が、戦争中から戦後へかけてのあわただしい時代を背景にして、一しょになったり離れたりしながら奏でてゆく庶民生活の、あわただしいような、どうでもいいようでいて、実はどうにもならない、意味があるようなないような、日常生活の歌……。それらがまるで作者が描く前からそこに在るような気がするのである。まず人々の生活がそこにあり、作者の筆はただそれを追いかけているだけだという感じがする。実は作者の筆こそ我々を導いて、そのような人々の実体を見せてくれているのだが、読んでいての感じは逆になる。運慶が大木で仁王像を彫っているのを見ると、もともと大木の中に仁王がいたのを、運慶はただそれを外へ取り出すために、余計な木くずを削り落しているだけであるように見えたということを或る人が書いていた。いくらか、あの話を思い出させる。広津のノミの切れ味は鈍い。速度も遅い。したがって我々が期待するような鋭さや速さでは人間像は浮び上って来ない。歯がゆいようにノロノロとそれらは筆の先から出て来る。しかし確かに出て来るのだ。それはそこに在るのだ。生きた人間がそこにいる。この実在感は疑いようがない。何はなくともこれさえあれば小説家として欠けるところはないとも言える。これさえあれば、ホントの意味では下手だとは言えないし、下手だと言われて、さしつかえない。しかし、
「その上に人生で羞恥心などといふものは疾くの昔に何処かに置き忘れて来てしまったような梶野は、隣室などには何の遠慮もなく破廉恥に振舞はうとする。それがひさには何より厭であった。」
 と言ったようなネボケタ抽象的な叙述で、この女の相手の男に対する性的嫌悪ならびに隣室に対する気持の抵抗などのジカな実感を読者に与え得ると作者は思っているのだろうか? 部分々々でジカな実感を読者に与えないことを作者が何かの目的のために意識して意図しているのであったら、これはこれでよいとも言える。しかし、この作品でこの作者がそのようなことを意図しているのだとは思えない。ただ無意識にそうしているだけである。よって来るところはまずこの作家の感覚の鈍化だ。次ぎに文章的表現についてのモノグサである。二つとも根本的には現実に対する「火」の消耗から来ている。大事なことは島崎藤村におけるがような、部分々々の描写におけるなまなましいものを回避することによって、全体としての、より大きな現実感を生み出すという方法から、これは区別されなければならない。広津が意図しているものは藤村あたりとはまったく違うと見てよい証拠があるからだ。それ故に私はこれを「下手クソ」と見る。そして下手クソはあらゆる場合に好ましいものではない。「ひさとその女友達」から、その他の弱点や、更に多くのすぐれた点を拾いあげることはできる。しかし、それらはさまで重要なことではない。そんなことよりも、この小説から私が考えたことでもっと根本的な、もっと一般的なことがあるからそれを書く。
 それはこの小説の「古さ」とこの小説における作者自身の自我の位置のことである。もちろんこの二つは相互に関係している。

 先ず古さについて言うが、たしかにもう古い。古いことが善いか悪いか私は知らないし、また、善い悪いを言って見てもしかたがない。ただ、とにかく、全体の構成も部分々々の切りこみ方も、それから文脈も、文章もそれらのテンポも、それから、ひさ夫婦と加代子夫婦の対位法風の処理のしかたも、古い。それが私のセンスに抵抗を感じさせる。「時代」を感じさせる。小説は文芸の中で一番今日的なセンスのものであろうし、ありたがる形式だ。今日的センス(私のセンスが百パーセント今日的なものであると独断しようと言うのではない。しかしこれは説明する機が来るまでそのままにしておく)に無益に抵抗する古さは、小説として長所とは言えまい。しかし、古さがそれだけならば、多分、この作品の決定的な弱点にはならないだろう。困るのは、その古さが、もっと根本的なものにつながって生まれて来ている点にある。それが、つまり、作品の中での作者の自我の位置のことだ。
 作品と作者の自我の関係と言ってもよい。それが古いのである。そしてこの場合の古さは、私から言うと、まちがった古さなのである。
 作者は、神の如く「下界を見おろして」書いている。神は下界の人間たちを一視同仁にあわれみ、愛し、許しているということは、一視
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