ひどい恐怖におそわれたことがあります。それは一身の安危に対する恐怖ではなく、もっと深くもっと強い、この人たちと自分の間には正常な意味で言葉が通じないという実感から来る恐怖でした。また、たくさんの狂人の中にまじって運動会を見たことがありますが、その時も笑い騒いでいる狂人たちの中に一人ションボリ立ちながら、私の感じた恐怖も、一身の危険というような事ではなくて、この人たちと自分との間に相互理解のカケ橋がさしあたり全くないという意識から来たものだったのです。二つながら、ただの単純な恐怖とはくらべものにならぬほど恐ろしいものでした。実は、二つながら、「なあに、こいつらは、普通の人間のことなぞわからんケダモノだ」と思いさえすれば、その瞬間からまるで恐ろしくもなんともなくなるような恐怖であるために、尚のこと、恐ろしかったのでした。
 今の日本の文芸家のどんな人たちをでも、闇のカツギ屋や、狂人たちにたとえようという気は私にありません。ただ、私どもの間の悲劇や恐怖の性質が、これらにすこし似ているような気がしたので書いただけです。同時に、三百人の闇屋の中に闇屋でない唯の人間が一人まじっていると、場合によって、その一人の方が「人でなし」になってしまったり、五百人の狂人の中に正常者が一人で立っていると、時によって正常者の方が「キチガイ」になってしまったりする事があることも、私どもの参考になりますし、そして、これもまた、恐怖をそそることがらですから書いただけです。
 悲劇は、ありがたいものではありません。恐怖は消えた方がありがたいです。つまり陥没は埋められる方が望ましい。というよりも、意識的無意識的に、私たちは埋める仕事をせざるを得ないのです。陥没を陥没のままに捨て置いて、その上に立っていることはとても耐えきれることではありません。すくなくとも、私は耐えきれません。私が前述のようなエッセイストとしての自身の不適格や不利を押し切って、このエッセイを書きつづけるのも、この埋めようとする努力の一つであるようです。
 私の考えも、その考えから起きる努力も或いは見当ちがいかも知れません。見当ちがいではないとしても、これくらいの事が、すこしでも埋めるタシになるかどうか私にはわかりません。しかし、私はこうせざるを得ないのです。陥没の深淵の底に小さな石ころ一つでも落しこんで見ざるを得ないのです。深淵の中からは、気味の悪い反響が聞えて来ます。しかし、それは一寸でも二寸でも深淵が埋まったという合図であるとは言えないでしょうか。言葉が通じなければ、ドナリ声だけでも、または手真似だけでもして見ようというのです。不快のことなどは当分タナあげにして置くつもりに私はなっているのです。――つまりそれが私が性こりもなくこれを書きつづけるワケの一つです。他にもワケはありますが、それはだんだんにわかってもらうようにしたいと思います。

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 Kさん。
 この恐ろしい陥没を埋めようとする努力は、言うまでもなく、本来批評家の仕事です。しかし、今日の日本の批評家たちは、ほとんど、これをしません。逆に陥没を掘り深めたりしている人がある位です。どういうワケでしょうか?
 思うに、批評ほど、やさしい仕事はありません。他を見て「お前さんはバカだ」と言ったり、「これこれの作品はナッチョラン!」と言い放てば、やっぱり、それは批評の一種です。同じことを、もっとムヅカシイ、わかりにくい言葉で言う技術を持っていれば、さらによい。誰にしても、何に対してでも、なんとか言えるではありませんか。大学を卒業したり中途退学したりして多少の学問と文筆への習慣を持ち、ほかにする事がなく、ヘラズ口を叩くのが好きな者にとって、批評家になるほど手易く「割の良い」ことは無いわけです。これ以上に、ノンキな商売はありません。しかし、それだけにまた、良い批評をし、良い批評家になるほどむずかしい仕事もないとも言えます。誰にでも、いつでも出来る事がらを、あたりまえにしながら、同時にそれを立派に上等にやる事ほどむづかしいことはないわけですから。それはちょうど、夏になってアイスキャンデイ屋になることが誰にでも出来るやさしい事であり、それだけにまた、すぐれた良いアイスキャンデイ屋になることが、なかなかむづかしい事であるのに似たようなことでしょう。なぜなら、あなたはアイスキャンデイを食って腹痛を起したり、下痢をしたことはありませんか? 私は数回あります。世間には、非良心的に作られ、非良心的に売られたアイスキャンデイを買って食って病気になったり死んでしまったりする子供が、かなりおります。困ったことにアイスキャンデイの中の悪いバクテリヤは目には見えないし、また、凍っているために、そのアイスキャンデイが腐敗しているかいないかが、目でも鼻で
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